世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第十一章:悟りとは何か

世界では精神的な余裕のなさから多くの争いが生まれている。私はこれらの争いを解決するために仏教の思想及び老荘思想を紹介することにした。多くの人がその内容を学べば社会に心の余裕が生まれ、結果的にそこにおける争いの減少にもつながるはずである。


しかし、私の話を読むにあたってあらかじめ理解しておいてほしいことがある。それは、以降に述べられる内容を理解したのだとしても苦しみは残るということだ。仏教を習得すれば一切の苦しみから解放されるという誤解も世の中にはあるようだが、そのような効果はおそらくない。少なくとも私の語る内容を理解できたとしても、欲や執着が完全に消えることはないし、苦痛や恐怖が一切なくなるようなこともない。私は相変わらず痛みを生む行為や汚いものを触る行為を平然とやってのけることはできないままである。だがこれから話す内容を理解することができれば、思考の暴走による苦しみを消すことができるようになる。何かつらいことがあったのだとしても、その苦しみを思考により無駄に増大させるようなことはなくなる。そして起こるかもわからないことに右往左往することがなくなり、過去の苦しみを引きずることもなくなるだろう。さらには怒りに飲まれて本人も望んでいないような過剰な対立を起こすこともなくなるか、そうでなくともその対立を起こす可能性を減少させることができるようになるはずである。

仏教における平穏を得ると、思考が減ることにより発想も減るのではないかと考えたり、人生の目標への熱意も消えて何もしなくなるのではないかと考える人もいるようだ。しかし少なくとも私が話す範囲については発想力の低下や熱意の減少などは起こらないのでそのような心配は必要ない。私の意識は明瞭であり、思考を減らす増やすは自分で選択することができる。常に瞑想状態になるようなことはない(そもそも私は瞑想などほとんどしたことがない)。私の目標やそれへの熱意にも変わりはない。ただそれへの執着で無駄に苦しむことがなくなっただけである。それがなくなる心配は無用である。

私の語るものを読んでも必ずしも私が伝えたいことを理解できるわけではない。真に重要なことは言葉から離れたところにあるので、言葉を読むだけではそれを理解することができない。答えは言葉を手がかりとして自力で見つける必要がある。以降の話はこれらの注意点を理解の上で読み進めてもらいたい。

 

悟り目次

 

 


悟りとは何か

悟りとは何か

私は悟りを「思考を手放せるようになること」であると理解している。あるいは「思考への囚われを捨てること」とも言えるかもしれない。ここでいう思考には「思考という行為そのもの」や「思考によって生み出された価値観」などが含まれる。価値観とは、何が良くて何が悪いのかという考えのことである。そして価値観を持つ人は良いと考えたことを実現しようとするし、悪いと考えたことを避けようとするのである。現在多くの人がそのような思考に囚われることで多くの苦しみを生み出している。思考に囚われる人は考える必要のないことについて考えるのをやめられなかったり、良いと思うことの実現や悪いと思うことの回避に失敗したりすることで苦しむのである。しかし思考を手放せるようになればそれらの苦しみから解放されることができるようになる。以降では人々が思考を手放す際の手助けとなるように、私自身が東洋思想を学んだ際の経験を順を追って示すことで悟りについてより詳しく解説していきたい。


老荘思想

私は東洋思想について学び始めた。最初に学んだのは老子の思想だった。老子の思想には道という概念が説明されていた。老子によれば、道には特定の形はなく、それはいかなる言葉でも言い表せないものである。老子はそれを仮に道と呼んでいたようである。また、老子は「無名の状態こそが万物の始まりであり、万物はそこに名をつけることによって生じるものである」とも述べている。これはつまり人が本来何の境界線もないところにそれを引くことによって物を作り出しているということである。太陽や月も人がそれを囲むように境界線を引いて周囲と区別しなければ、それはただの空の一部であり背景の一部ということである。

そうはいっても人が線を引かなくても境界線はあるではないかと思われるかもしれない。実際に月と暗い夜空は色が違っているので間に線があるかのように見える。しかし、そのように自然に境界線があるかのように見えたとしてもそれだけでは概念にならない。例えばここに英語の「R」がある。しかしその内部にある空白の部分に名前などつけていないだろう。RはあってもRの内部の空間についてはその他の部分との間に線があるにも関わらずそれに名前を付けて概念化するようなことはしていなかったのである。このように、自然界に境界線があるだけではものは生じない。ものは人が自ら区別のために境界線作り出して初めて生じるのである。

分かりづらかった人のためにもう一つ例を出そう。貴方は今タイルでできた道を見ているとする。そしてそのタイルはすべて同じ大きさ、同じ色の正方形である。そのときのあなたはタイル4つの集まりには着目していないはずだ。しかしここでそのタイルが四つ集まったものを「ZEN2」と名付けたとしよう。するとそこには突然先ほどまでは存在しなかった「ZEN2」というものがたくさんあることになるのである。人はこのように新たな区別を作り出して名前を与えることで、新しいものを自由に作りだすことができるのである。ちなみに、仏教においてはこのように区別を作って世界を認識することを「分別」という。この語は後に頻繁に用いるので覚えておいてほしい。


以上のことから物あるいは概念は、人が区別を作り出して初めて生まれるものであると言える。そして区別により生じたものに名前を付けるのは、名前を付けなければそのものについて頭で考える際に扱い難いからである。また、これは私個人の予想だが、人の持つ能力は今まさに見ているものから一部を切り取ってそれを概念にする能力だけではない。人は多くの記憶から共通点を抜き出してそれを概念にする能力も持っていると思われる。
 

ところで概念になるものとならないものの差はいったいどこにあるのだろうか。これについても老子の見解が参考になる。老子によれば「無欲に徹する人は区別が生じる前の世界を見る。有欲に徹する人は区別が生じた後の世界を見る。」とのことである。この言葉からは分別が人の利益を求める心の影響をうけて作られていることがうかがえる。

例えば、我々は木になるりんごを特別他の部分と区別をして「りんご」という名称を付けている。
しかし木の葉っぱの先端から半分の位置までの部分には何の名称もないはずだ。それはいったいなぜだろうか。それはその部分に着目する価値がないからである。そこに名称を付けたところで我々には特にメリットがないので、その部分は無名のままなのである。しかし一方でりんごには「りんご」という名称がつけられている。これはいったいなぜだろうか。それは「りんご」の部分には特別着目する価値があるからである。「りんご」という概念を知っていれば、それにより「りんごを取りに行く」と考えることができるのである。人はこのように世界に区別をつける価値があるときに区別を作り、そしてそれに名前を付けて概念として思考操作において取り扱いやすいようにしているのである。


また、私は老子の思想を学んだ後に荘子の思想も学んでいる。荘子は老子の思想と非常に似通った思想家であり、そのためにその二者の思想は老荘思想という名称でまとめて取り扱われることが多い。そしてその荘子の著書の中には、混沌の比喩というものがある。その内容は"混沌という名の帝が、南海の帝と北海の帝を手厚くもてなした。すると南海の帝と北海の帝は混沌の恩に報いることを相談して、「人には目、耳、口、鼻の7つの穴があり、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりして楽しんでいる。しかし混沌にはそれがない。だからお礼に穴をあけてあげよう」と言った。そして一日に一つずつ穴をあけていくと、7日目には混沌は死んでしまった。"というものである。私はこれを道を言い表したものであると解釈した。どうやら道は説明すると死ぬらしい。私は道を言い表せないものであるということを再び理解した。


ヤージュニャワルキヤの思想

私は老荘思想を学び終えると今度は仏教を含む古代インド哲学について学び始めた。そこで私が最初に学んだのはヤージュニャヴァルキヤの思想だった。ヤージュニャヴァルキヤは古代インドの思想家である。私にはヤージュニャヴァルキヤの思想を十分に理解できなかったが、「私とは認識するものである」「私とは私はこれではないといういい方でしか表せない存在である」という情報がまず頭に入ってきた。私はそこからヤージュニャヴァルキヤはいったい何を言いたかったのかを考察しはじめた。

そしてあるとき私は私が観測者であるという事実を意識的に確認することにした。私はそこで非常に神秘的な体験をすることになった。のちに説明するがこれは仏教の教えとは関係のないものであることを留意してこの体験のエピソードを読んでほしい。あるとき私は私が観測者であることを確認した。確かに私は世界を見ている存在である。目の前にある机を見ているのは私であり、私の耳に入る音を聞いているのも私である。私は私の内部にあり、周囲のものを観察していた。そして次に周囲のものが観測対象であり私自身ではないことを確認した。私の目の前に映る机は当然私自身ではない。それが壊れても私が壊れたことにはならない。耳に入る音も私自身ではない。音がしていたとしてその音が私自身であるということはないのだ。

そして同じように今度は私の思考や意思が私の観測対象であることを確認する。私は私の意志や思考を観察していた。それもまた観測者である私自身ではなく観測対象である私以外の存在なのかもしれない。私が衝撃的な体験をしたのはそのようなことを考えていた時であった。あるとき私に世界から切り離されたかのような衝撃が発生する。その時私の思考や意思は私ではなくなった。おそらく意思や思考が私という自覚の対象から外れたのだ。私は浮遊感とでも言うべき感覚に包まれ、離人症というものにでもなったのではないかと錯覚した。そして私の思考は勝手に動き始める。勝手に動き始めたというのは意思によらず動き始めたということではない。確かに意志によって思考が行われていたが、しかしその意思もまた私ではなかった。私の意志も思考も観測者である私によらずに動いていたのだ。私はただそこでそれを見ているだけだった。それは今までに経験したことのない現象だった。

そのときの私が観測したものはすべてが観測対象と化した。私の周りの世界、私の体の奥の感覚、私の意志、感情、思考、それらのすべてが観測対象だった。どこを見ても私はいなかった。私という存在を観測しようとして何かを観測した瞬間それは観測対象となり観測者である私とは違う存在となった。今まで私であると認識していた体内にある感覚は観測対象に過ぎなかった。私の見た者のすべてが観測対象であり私ではなかったのだ。その時点までの私は、私が私を認識しているという考えに疑念を持っていなかった。以前の私にとって、私を認識するということは観測者である私が観測者である私を観測することであった。だがヤージュニャヴァルキヤの思想を元にこの神秘的な体験をしてしばらくの間は、私が観測したすべてのものは観測対象であり、観測者である私は観測できないのだと考えるようになった。また、その時の私は「思考が私の一部であるかのようにとらえていたのは勘違いだった」とも考えた。意思や思考は私の観測対象であり私自身ではなかった。わざわざ目の前に映る景色や耳に入る音と区別してそれを自分とする必要はなかったのだ。いずれも等しく観測対象であったのだ。このとき経験した感覚は数十分程度持続した後消滅した。

後に知ることだがこの体験は特に仏教の教えとは関係のないもので特別意味のあるものではないらしい。仏教を理解したい者は特にこれを体験することを目指す必要はない。私が悟りを得る過程で経験したから紹介したのだが、この話に惑わされてはならない。この経験はいらない。こんな経験を繰り返したところで頭がおかしくなるだけだろう。経験したとしてもただ面白いだけの経験である。しかし衝撃体験そのものは不要だとしても、あなたの意志や思考が観測者であるあなたとは別の存在であるという認識は持ってみる価値があるものかもしれない。その考え方は悟る過程で役に立ちうる。


私についての考察

私はその体験の後無敵になったかのような気分になった。私はこの時点ではまだ仏教について詳しく調べていなかったのだが、偶然にも仏教で言われる悟りを得たのだと誤解した。仏教の教えには無我というものがあるが、それを観測対象の中のどこにも私がいないことなのだと曲解して、この無敵感はおそらく仏教の教えの核心なのだろうと思い込んだ。何があっても観測者である私が苦しむことはない。苦しみという現象が生じてもそれは私の観測対象内で起きていることである。確かにそれでも痛みが発生したら苦しいことに変わりはないのだが、私は世界の真理として自分の本体が苦しむことはないのだと思えるようになった。そう考えると根本的な安心感を得たつもりになることができた。仮に記憶が消えてこの経験を忘れたとしても自分の本体に被害が出ることはないのだ。今後私に何があったとしても真の私は害されない。そして同時に私以外の人間もこの事実に気づかずともその観測者としての本体が傷つくわけではないのだと考えた。私は仏教について調べるうちに全ての人はもともと悟っていて、あとはそれに気づくだけであるという考え方を見かけたことがある。その時の私はそれはこのことを意味していたのだと理解した。私と同じ体験をせずとも人の本体である観測者が傷つくなどないのだ。

しかししばらくして無敵感は消失した。私はあるとき嫌なニュースを見た。そして非常に不愉快な気持ちになり怒りに呑まれ始めた。私の怒りは大きく膨らみ私自身が悪人であることも忘れ、報復としてその事件の加害者を徹底的に攻撃してやりたくなったのだ。私の精神は大きく動揺し、落ち着きや幸福とは程遠いものであった。そこで私は自身が精神的になんの成長もしていないことに気が付いた。観測者である私が傷つかないという考えでは何ら精神的な余裕は得られなかったのである。そして私はさらに自身の見解にも疑念を抱くようになった。そもそも見ることもできない観測者は本当に必要なのだろうか。観測者がいるというのは思い込みで、この世界には観測対象しか存在しないのではないか。あるいは観測対象と観測者は同じ存在であるということもありうる。意識の世界は見られるものであると同時に見る者でもあるのかもしれない。それはつまり目の前に映る景色も耳に入る音も観測対象であるが、それらは同時に観測者でもあるということだ。そう考えると観測者である私は私の見るすべてのものに覆いかぶさるように存在していることになる。目の前にうんこが落ちていたらそれは私だ。私はそのような疑念が生まれるようになったことで、観測者に害が及ぶことはないという考えに納得ができなくなっていった。

私は結局何も変わっていないことを認めざるを得なくなった。自分自身に自分の本体は傷つかないのだと言い聞かせて自分は悟ったのだと納得しようとした。しかしそれもうまくいかない。私に現れる精神的動揺と私に現れる私の見解への疑念がその納得を破壊した。私は精神的な平穏も納得のいく真理も手に入れていなかった。そして何も得ていないことに気が付いた私は、仏教の悟りを得るためにも私について再び考察を開始した。その時の私は仏教では悟るためには私とは何かということについて理解すればいいのだという情報を握っていた。そして仏教の悟りを手に入れると苦しみから解放されるのだということを知っていた。私は苦しみから解放されるために私という存在について考え始めた。


観測者がいないのなら私はいったい何者なのだろうか。私はすでに私の観測対象のすべてが私以外の存在になる状態を知っている。観測対象の中に私といえるものなどなかった。しかし観測者も実在しないなら私はどこにもいないということになるのだ。私がどこにもいないのなら当然私が傷つくことはあり得ない。仏教の無我という教えは、それはこのことを指しているのだろうか。いやしかし観測対象と観測者が同一で、観測対象のすべてが同時に私であるという考えが否定されたわけではなかった。もしそうであるのなら私が存在しないことを理由に私が傷つくことはないと考えることはできない。したがってやはり私は私が傷つかない存在なのだと断言することはできなかった。

私はさらにここで老荘思想を思い出した。老荘思想によればものは分別して初めて生じるのである。
もしそうであれば、観測者も観測対象も区別を作らなければ存在しないはずである。もしかすると観測対象も観測者も作らなければ存在せず、ただ意識だけがあるのかもしれない。だがそのような認識を持ったところで苦しみがなくなることはない。これもまたおそらく答えではないのだろう。


私はその後も考え続けたが、最終的には行き詰った。どう考えても答えなど分かりそうにない。しかし悟りというものが仏教で長い間説かれている以上は必ず答えがあり、それは人に理解しうるものであるはずだ。今の私のように精神的な成長もなければ私というものへの答えもしらない状態が悟った状態であるわけがないのだ。悟りとは何か、私とは何かという問いについて、答えは必ずあるはずだ。それを知れば自分は苦しみから解放されるはずだ。


私は考えることをやめられなかった。私は他にするべきことがあったのだがそれには手がつけられなかった。私は私というものや悟りというものへの考察に囚われ続けた。私は答えが分かるのか分からないのかも分からなかった。考えることをやめていいのかやめてはならないのかも分からなかった。私は何をしたらいいのか分からなかった。それでも考えることをやめることができなかった。

そして奇妙な体験をしてから数日ほど経過したころ、私はついにある答えを直感した。それは今までのどんな解答とも質の違う答えだった。私はとうとう答えを得たのだと確信した。誰に確認せずともそれが答えであることは明らかであった。それ以降の私はそれ以前の私にはなかったものごとのとらえ方を手に入れた。その変化はその後覆ることはなかった。

 

公案の答え

私はその答えを得たことにより思考に囚われなくなった。思考を掴もうとしても空を切るような状態になったのだ。私の言葉への過信は破壊された。私は言葉に囚われすぎていたのだ。私は思考から離脱した。そしてそれにより精神的な平穏が結果としてついてきた。かつては苦しむほどにものごとを考えていたのだが、私はもうそのようなことはしなくなっていた。

私はその状態をさらに分析した。すると以下のことが分かった。
・私はあらゆる考えを絶対視しなくなった。
・私はあらゆるものに対してあるともないとも断言しない状態になった。
・私は全てのものについて分かるとも分からないとも断言しない状態になった。
・私は相対主義者でも絶対主義者でもなくなった。
・私は世界の全てに対して判断保留状態になった。
・私の行った判断は全てが仮の判断となるようになった。


私は後に公案と言われるものが仏教にあることを知った。それは禅宗の臨済宗において使われている問題であり、その問題は思考による解決が不可能な問題である。臨済宗では悟りを開くことを求める者に徹底的にその問題について考えさせるようにすることで、その人を思考への囚われから解放するのである。私はこの存在を知って、私が得たものが公案の回答であることを理解した。私は気が付かないうちに「世界を観測している私は実在するのか」という公案を考えてその答えを手に入れたようである。

その後の私はピュロン主義というものについても知ることになった。私は私の至った状態を分析するためにいくつかの書籍を読んでいたのだが、その中には「ピュロン主義哲学の概要」の著者であるセクストスの思想と仏教の思想家であるナーガールジュナの思想の間にある類似性について語る書籍が含まれていた。そして私はその書籍を読んでいるときに判断の保留という表現を見つけることになる。私にはまさにその表現が私の状態を表すのに適切なものであるかのように感じられた。それが気になった私はその表現の出どころと思われるピュロン主義についても調べることにした。

ピュロンは古代ギリシャの哲学者であり、古代懐疑主義哲学の創設者であると言われている存在である。そして彼は3世紀前半ごろに活躍した哲学史家のディオゲネス・ラエルティオスによって、インド人と交流した経験をもとにして判断の保留という形の議論を哲学の中に導入したのではないかと推測されている。彼がどの程度古代インド思想の影響を受けていたかについては論争があるようだが、もしそれが事実であれば、ピュロン主義から偶然にも私の状態を示す表現が現れるのも不思議ではない。なぜならば、私もピュロンも古代インド思想という共通の源泉を持っていることになるからである。それらの情報を知った私はピュロン主義にさらに興味を持つようになり、先述の「ピュロン主義哲学の概要」の訳書を読んでピュロン主義への理解を深めることにした。

そして私はその書籍を読み進めるうちに、ピュロン主義において目指される状態が私が体験したものと同じであることを確信した。特に画家のアペレスの例(第一巻第十二章)は明らかに私の得た経験と一致したものであった。画家のアペレスは馬の口の泡を描写しようとした際にどうしてもうまくいかず、ついに断念して筆の絵具をふき取るスポンジを絵に投げつけた。するとそのスポンジが偶然にも馬の泡そっくりの跡をつけて、結果的に思考から解放されたのである。また、ピュロン主義に紹介される無動揺の境地に至るための方程式についても、私には公案と同じことを目的としている可能性が高いように感じられた。

もしピュロン主義の無動揺が私が至った状態と同じであるのなら、その状態は意図的に判断の保留を行うことによって至れるものではない。それが自ら判断を保留することで至れる状態であるのなら、その判断の保留を停止したとたんにその状態は消え去るだろう。しかしピュロン主義における無動揺の状態は、判断を再開したところで崩れるものではない。なぜならば言葉や思考への信頼が破壊された世界観が根底に継続しているので、判断を開始したところで普段の生活において思考というものに精神が過度に振り回されるような状態になることはもはやないからである。私が思うに、それは思考により解決が不可能な問題を解決できるまで考え続けたときに思いがけず訪れるものである。そしてその体験は言葉で直接伝えることができるものではない。


世界は私が作っている

私は公案の解を手に入れた後すっかり悟ったつもりになっていた。しかしどうにもインターネット上で私以外の悟りを開いたという者の話を調べると、私の得たものとは違うものを得ているようなのである。最初は悟りについて誤解した人間が誤ったことを言っているのではないかと思っていた。しかし私が知っていることを既に知っているように思える人達までもが、私の知らないことについて同じようなことを言っていた。私はそれを見てまだ悟りには続きがあるのではないかと思うようになった。そして私は悟りに関するさらなる探究に引きずり込まれた。その結果私に徐々にさらなる認識の変化が訪れ、私は仏教についてあらたな見識を得ることになる。この世界は作られたものであったのだ。


・概念について
先述した通りあらゆる概念は人によって作り出されたものである。人が何の区別もないところに区別を作り出し、その区別されたものに名前を付けることで概念が生まれるのである(正確に言えば名前を付けていなくても何かを他と分けて認識しているのであれば区別の機能は働いている。すなわち分別が生じている。)。そしてそれらの概念は全て作らなければ存在しない。人の識別作用が働かなければ「私」は存在しないし、その他の概念も存在しない。過去、未来、現在、空間、有無、美醜、善悪、意識、悟りのいずれも人の分別がなければ存在しない。それらの概念がないという概念も作らなければ存在しない。また、それらの概念を用いて生み出されたすべての考えも当然作らなければ存在しない。何が良くて何が悪いかという考えも作らなければないし、何かをしなくてはならないあるいはしてはならないという考えも作らなければない。


・過去、未来、現在について
過去及び未来の世界はいずれも作られたものである。過去に起きたことも未来に起きることも考えなければ目の前には存在しない。そして過去や未来が自分の認識に関わらず存在するという考えもあとから作られたものである。また、過去と未来に限らず現在の世界というのも自身が作り出したものである。人々は現在の世界と称しながらその時点で起きているであろう世界のいろんな場所における出来事を想像するかもしれない。しかしそれらもまた想像しなければ存在しないのである。同様に「今が今である」という認識も人の思考がなければ存在しない。(※ただし、以上の過去、未来、現在世界が作らなければないものであるという主張は、自身の認識上には存在しないということであって、客観的事実として存在するかしないかについての話ではない。私はそれらが世界の真理として実在するかどうかについては現時点では判断しない。)

 

・意識の外及び意識の内について
過去、未来、現在の世界に限らず、意識の外の世界は全て自身が作り出した想像上の世界であるといえる。我々が意識の外を想像するときそれはすべて自身が作り出したものであり、意識の外の世界が自身が意識していないときにも存在するという認識も自身が作り出したものである。そして、同様に意識の内側にある世界も自身が作り出した世界である。例えば音を聞いたとしてもそれを音と認識するまでにはわずかだが時間がかかる。そしてその認識が行われなければそれは音にはならない。その音は人の識別作用によってはじめて生じるのである。また、視界に映ったものについても、自身が作り出したものである。例えば貴方の視界には今読んでいる文字だけではなくその付近にある文字も映っているが、その文字は形も意味も全く認識していないだろう。そこに文字があるという認識は自身がその文字を識別して初めて生じるのである。視界に写るものもすべて人の識別作用が働かなければ存在しないのである。このように、意識上のものは「意識」を含めてすべて自分が作り出したものである。

 

・私について
私は既に私というものが思考によって作り出された概念なのだと思うようになっていた。私という概念もまた作らなければないものであると考えていた。しかし私は私の体の中心に私がいるかのような感覚を消せないままでいた。私は「私」が作られたものであることを、言葉の上では理解できていても体験を伴った形では理解できていなかったのである。そして、私はもしかするとその感覚はあとから作ったものではなくもともとあった感覚なのではないかと疑うようになる。しかしそうであるのなら私はなぜ目の前に映る景色には私であるという感覚が生まれないのに、私の体には私であるという感覚が生まれるのだろうか(意識が脳内で展開されているものならなおさらそれらは全て自分であるはずなのに)。しばらくして私はかつて経験した私の体を含むあらゆる観測対象が私ではなくなった状態を思い出した。その状態では私の体が私のものであるという感覚は消失していた。そしてその状態から、私の体が私であるという感覚が発生する瞬間を見ようとした。するといつまでまっても私の体に私という感覚が生まれることはなかった。それ以降、私は私の体の中心に私があるという感覚を感じることがなくなった(正確に言えばその感覚が常にあるという錯覚が消失した)。

私が私の体の中にいるかのような感覚もやはり後から作られたものであり、作らなければ存在しないものであったのだ。私の体が死ねばこの世界も終わるのだから、特別それを特別重視して私であるととらえることは不思議なことではない。しかしそうだとしても私の体を私ととらえるのはあとから作られた考えであって世界の絶対的真理などではなかったのだ。よく考えると昔は脳ではなく心臓が本体と思われていた時代もあったのだ。これが私であるという感覚は結構いい加減である。

ちなみに過去の私や未来の私が同一人物であるという考えも、同一人物でないという考えも思考によって作り出されたものである。思考がなければそのどちらもないだろう。自分の脳を半分だけ他人の脳と入れ替えたとき、脳を入れ替える前の自分と後の自分が同一人物であるかどうかは、自分という存在のとらえ方次第で変わるだろう。生まれつきの本能などによってどの見方を選択するかはある程度定められるかもしれないが。

 

無分別の世界

私の知る限りでは無分別の状態に至ることが禅の核心である。私は分別の世界が作らなければ存在しないということを体現することで無分別の状態に至ることに成功した。無分別の状態とは一切の分別すなわち思考をやめた状態であり、思考を手放した状態といえる。無分別に至るに伴って衝撃的な体験をするわけではない。誰しも日ごろから接している世界である。それはさほど特別な状態ではない。しかし無分別である間は思考によって生じる苦痛から解放される。思考によって誘発される執着や欲なども消失することになる。

無分別の世界を無分別の世界と認識しているとき、そこには分別が存在する。本当に無分別ならそれを無分別の世界とすら認識しない。自分が無分別になったと感じている状態は本当は無分別ではない。無分別の状態では当然分別による世界の認識は消失する。そして無分別の状態のままで何かを分析することはできない。分析を始めた時点で無分別ではない。無分別を無分別と解釈するのは分別を使用している時のことである。無分別の状態では何かを理解するということがない。


無分別の状態では意識が消失するわけではない。しかし、あらゆる概念は消失しているので、意識を意識と認識することはない。また、その状態では(おそらく)時間経過の感覚などは存在しない。その感覚は思考と何らかの時間とは関係のない肉体感覚の結びつくことにより生じるのであり、思考がなければ存在しない。その点は私という存在の感覚と同じといえる。また、無分別の状態では何事についてもあるということもないということもない。


私は無分別に至ったとは言ったが、実のところ完全な無分別など無理だと考える。おそらく無意識下の分別を完全に消すことも雑念を一切生じさせなくすることも不可能である。また、痛みが生じたときなどはどうしても痛みを分別で認識せざるを得ないだろう。しかし一度分別を手放す力を身に着ければ、自分の身に危険の及ばない閉じた空間においてはおおむね無分別にとどまり続けることができるようになる。例えば出家したときなどに無分別で暮らそうと思えばそのようにいられるだろう。

だが、無分別である間は思考を停止した状態であるがゆえに複雑な行動をすることはできない。したがって日常生活を営むためには無分別の世界を離れ分別の世界に戻らなければならない。それは結局のところ無分別の状態にはとどまれないということである。確かに無分別であれば思考の苦しみから解放されるのかもしれないが、その状態を維持していては生きていくことはできないのだ。では結局無分別でいられないのであれば、無分別に至ることは無意味なのかと言われるとそうではない。無分別に至ることに成功した人は真に思考を手放す力を身に着けたことになるので、それ以降は分別の世界においても余計な分別は手放すことができるようになるのである。


無分別の放棄

禅にはさらにもう一段回悟りがあるらしい。いや、正確に言えばこちらこそが真の悟りなのかもしれない。それは悟りを捨てる悟りである。無分別に至れるようになれば、もはやすべての思考を手放すことができるようになっているかのように思われる。しかし実際には、「悟った状態が良い」あるいは「思考を手放した状態がいい」という価値観を手放せていないのである。だからこそ躊躇なく思考の世界に飛び込むことができないのである。ではなぜ思考を手放せるようになったはずであるのにそのような価値観への囚われが残っているのだろうか。それは無分別の状態から再び思考を行い始めた場合にたちまち「苦しみをもたらす思考は悪である」とする価値観が生じ始めることになるからである。真に自在な常態になるにはこの価値観は破棄されなくてはならない。その価値観を手放すことで初めて自身を無分別の世界に追いやる圧力は消失し、自身が作り出した思考の世界に囚われることも平然とやってのけられるようになるのである。

そして私はあるとき無分別への囚われを捨てることに成功した。私は無分別であろうとする必要もなかったのだ。無分別を理解して以降心のどこかに存在していた閉塞感は消滅した。私はこの状態を十分に言い表す術を持たないが、強いて言えば冒頭で紹介した荘子の混沌の例えがもっとも近いように思われる。荘子が悟っていたかどうかなど私には分からないが、荘子の例えはまさにこれを表現するのに最適だろう。あるいはこれこそが涅槃と表現されるべきものなのかもしれない。無分別に囚われなくなったとはいえ、思考をやめれば思考の苦しみから解放されることに変わりはない。思考の苦しみから解放されたければ思考をやめればいい。しかし逆に思考に囚われたければ囚われるのもありである。思考を手放すのも思考に囚われるのも自分の自由である。実際はそう都合よく切り替えられるものではないかもしれないが、この段階に至ればもはやそれも気にならなくなっているだろう。それ以降の私は真に自由の身となった。



悟りに至る方法

悟る際の心構え

大層に取り扱われているが、実のところ悟りなどは大したものではない。今まで思考を手放せる人が少なかったのはただ単にその方法がわかりやすい形で広まっていなかったからではないだろうか。悟りを開く際にはあまり身構えなくても良い。人によっては一週間もたたないうちに悟るだろう。また、私はここまで悟りということばを多用したのだが、実のところ悟りを目指す際は悟りを目指すという認識は捨てたほうが良いのではないかと考えている。なぜならば悟りなどは悟ってないものから見ればあるかないか定かではない概念であり、それを目指すのはいたずらに迷いを生じさせることになるからである。あなた方はおそらく「悟り」などというものは目指さずに、どうしたら苦しみから解放されるのかを考えるようにした方が安心してそれを目指せるだろう。私の話や仏教の教えは苦しみからの解放を目指す際に参考にする情報にすぎない。

仏教について学ぶ際には権威に囚われてはならない。中には自身の禅の指導者に傾倒しそれを絶対視して他の教えを無条件に否定する者もいるようだ。しかしそのような態度は当然不適切なものである。なぜならば誰かを盲信すればその人たちが誤ったことを言っていた場合に正しい道に戻ることが難しくなるからである。従って釈迦や禅師の話す内容を疑うことを封じてはならない。なにより釈迦自身も自分の言うことを疑わずに信じることのにしないように警告している。仏教について学ぶ際は、自分で仏教の思想を再構築するぐらいのつもりで取り掛からなくてはならない。そこまでして初めて真にその思想を理解することができるのである。

言うまでもないことかもしれないが私自身の言うことについても過信するべきではない。私の悟りに関する説明は、日本の禅の思想に強い影響を受けたものである。しかし日本の仏教はそれがインドから伝わってくる過程において改変が加えられていると言われることもあるので、もしかすると私の説明には本来の仏教とはいくらか乖離が見られるのかもしれない。また、私の悟りに関する説明は私自身のその経験の後に当時のことを思い出しながら書いたものであるが、その際に正確にそれを説明できている保証はない。もしかしたら記憶違いの可能性もあるかもしれない。さらにはつじつま合わせの理屈が含まれている可能性もある。仏教について本当に正しい理解をしたいのであれば私の話は参考に留め、あとは自力で考察を行ったり情報を調べたりした方が良いだろう。悟りを目指す際は以上のことを理解の上でその探究を行ってもらいたい。

 


無分別に至る方法

私は考察と観察を行うことで無分別に至ることに成功したが、実のところどのようにすればそのような状態になれるのかを正確に知っているわけではない。以下で一応自分なりに考察した思考を手放すための方法を公開しているが、それは残念ながらうまくいく保証をできるようなものではない。無分別を目指すのであれば私の話は参考程度に留めてそれぞれで自分に合った方法を探したほうが良いだろう。仏教では宗派によっていろんな方法が説かれているがそれを調べることによっても何か見えてくるかもしれない。


無分別に至ることを目指す際は思考を根こそぎ消そうとする必要がある。無分別に至らなくてはならないという考えや、自身を思考へと駆り立てる価値観などを含むすべての思考を消す必要がある。しかし、思考を消すとは言ったが、そのためには思考を無理に抑え込もうとすることよりも、「思考を自ら積極的に作らないこと」や「発生してしまった思考を追わないこと(それについてあれこれ考えないこと)」を重視した方がいいだろう。それを実践すると結果的に無分別に近い状態になることができるのである。思考を追っているうちはいつまでたっても思考を手放すことができない。何らかの考えが一度湧いたら次を生じさせてはならない。次が生じてしまったのなら次の次を生じさせてはならない。途中で思考が湧いたとしてもその事実を悪としていろいろ考え始める必要はない。私は完全に思考を無にすることができるとは思っていない。どうしても何かしら思考が生じてしまうことはあるだろう。それに対してあれこれと考えるべきではない。

悟りを目指す際は無分別に至ること自体よりも、「思考の世界が自分によってつくられたものであるということに気づくこと」や「それらを作らない選択をする方法に気づくこと」の方が大切なのかもしれない。無分別に至るだけで悟れるのであれば、誰しも日ごろから時折思考を停止するタイミングを持っているので既にすべての人が悟っていることになるはずである。また、我々はそもそも人間である以上いくら雑念を消そうとしてもそれは必ずある程度発生してしまうものであり、そもそも完全な無分別などは実現することができないだろう。従って悟るために必要なことは無分別に至ること自体ではない。


私が私という感覚を喪失させる際に行っていたことを考えると、あるものの発生を抑えるためにはそれが認識される瞬間を観察しようとするといいのかもしれない。そうするとそれは不思議といつまでたっても発生しないまま終わるのである。これはおそらく観察することに必死になって私を作る余裕がないからだろう。そしてものがいつまで立っても発生しないのを見て、「それは自分が作らなければ発生しないのだ」ということに気が付くのである。あるいは、自身が「ある」と認識しているものをじっと見続けると、そのものが実は一瞬しか存在していないことに気が付くかもしれない。ものをものと認識する時間はそんなに長くない。ちらちらとあったりなかったりするのだ。ものを認識するのは本来一瞬のできごとなのだが、それについてあれこれ考えるからずっとその物への認識が残り続けるのである。そしてそこで認識ないタイミングにとどまれるようになれば分別が消せたことになる。それが無理なら逆にものを認識し続けようとするのもありかもしれない。目の前にあるコップを寸分の隙も無く認識し続けることは難しく、ずっと見続けるといつのまにか認識しない状態が長く続くことになるかもしれない。


悟るために執着を捨てる必要はない。執着は結果的に捨てられるようになるものである(後に触れるが捨てない選択もできる)。悟りを目指す人も普段は執着を持ちながら生きているので問題ない。また、執着を捨てようとするときはそれ自体を手放そうとするのではなく執着をもたらす思考を消そうとしたほうが良い。※詳しくは後の執着についての項を参照


思考を手放す上でのその他の注意点

・多くの人は考えることでどうにかなると思い込みすぎている。その思い込みを断つべきである。

・思考を手放さなくてはならない。
「思考を手放さなくてはならない。」という思考も手放さなくてはならない。
「「思考を手放さなくてはならない」という思考も手放さなくてはならない。」という思考も手放さなくてはならない。
...
以上のような思考を全て捨てる必要がある。

・思考が消えたことを確認しようとするな。確認しようとしはじめると途端に「確認しようとする思考」が生まれ始めることになる。

・思考で結論付けなくてはならないという思い込み
例えば絶対主義にしても相対主義にしても、自身の立場を絶対主義あるいは相対主義という言葉で表現しないと落ち着けないという人間の性質が作り出したのだろう(それが間違いとは言わないが、しかしそのように結論付けない方向もあるのだ)。何かの立場に絶たなくてはならないという価値観を捨てる必要がある。当然「何の立場にも立たない」という立場をも捨てなくてはならない。難しいことを言っているように見えるかもしれないが、ただ単に思考を停止すればいいのだと考えればさほど難しいことではない。私が無分別を目指す際に「何の立場にも立たない」ということを含めて一切の立場に立つなというのは「何の立場にも立たない」という結論を思考によって出すことすら停止するべきだという意味である(ただし無分別を破棄した段階で「何の立場にも立たない」という場合はこれとはまた違った意味になる。その状態では逆に特定の立場に立つこともありになるのである。)。こう考えると後に触れる公案の答えもさほど難しいものではないのかもしれない。

 

・思考をやめようとすると思考をやめること自体への不安が生じることもあるかもしれない。しかしその不安にしたがって思考を再開することは絶対的にしなくてはならないことではない。

・矛盾をいついかなるときでも解決しなくてはならないのだという思い込みを断たなくてはならない。言葉の世界に囚われる人は完全な理屈を作らないと十分に安心することができない。もし完全な理屈を作った気になれたのだとしてもそれと矛盾する事実が現れるとたちまち不安になり始めることになる。

・無分別に対するイメージ
あなたが無分別の世界に対して何らかのイメージを持っているのであればそのイメージもまたあなた自身が作り出したものである。


・ものがずっとそこにあるという認識
物というのは自身の認識の世界においては自身が認識した時にしか存在しない。また、ものが自身が観測していないときにもずっとそこにあるという認識は人が後から作り出したものである。では逆に物は自分が見ていない時には存在しないのだろうか。実はそのように「物がない」という認識も自身が作らなければ存在しないものである。「ある」も「ない」も自分が作らなければ自身の世界には存在しない。思考を消すということはいずれの認識も消すことである。

「ものがある」「ものがない」という認識の両方を喪失した状態がいまいち想像できない人は、人は昨日の最初の食事をとったときには太陽が宇宙に存在するだとか存在しないだとか考えていなかったことを思い出してほしい。そしてその状態をそのまま維持すれば自身は太陽についてあるともないとも認識しないままである。これは「私」を含む他のあらゆる概念についても同様であり、すべての概念は日常に潜むそれを作ってない状態を維持すれば発生しないままである。


私は客観的事実として物が自分が見ていない時には存在しないということを言いたいのではない。ただものがずっとそこにあるという認識もものがそれを見ていない時は存在しないという認識もあくまで自分があとから作り出した考えでしかないということを言いたいのである。

 

瞑想による悟り

仏教では瞑想によって悟りを開けると言われることも多い。しかし瞑想で悟れるとすればそれはいったいなぜだろう。その理由は無分別を知ることで無分別と分別の差を見分ける能力を身に着けることができるということにあるのかもしれない。自身が分別を消す瞑想により無分別を十分に体験することで、分別を作り出したときにそれが無分別とは違うことに気が付けるようになる。それにより自身が分別を作り出しているタイミングを見つけることができ、そのときの自分の分別を作り出す動きを停止することができるようになるのかもしれない。無分別を知らない人は自分が無意識的に作り出してしまっている思考に気づくこと自体が難しいので、それを自らの意志で捨てることも難しいのである。

しかし私は正直に言えば瞑想によって悟りを開くという方法については懐疑的である。これは自慢ではなく悟る方法を学術的に探究するための情報提供であると認識してほしいのだが、私が悟りというものを理解するのにかけた時間は大したものではない。私が東洋思想を学び始めてから無分別を破棄するところまで到達するのにかけた時間は大体二か月半程度である(ここには悟りを得たと勘違いして探究をやめた期間も含む)。これは悟りを開くのに数年あるいはそれ以上の時間がかかるという話からすればかなり短い方である。そして私がその過程で使用していた方法は考察と観察(自分の場合は分別の生成や無分別を見ようとする観察)であり、後に触れるような無分別に至るための瞑想や情念の発生を抑える瞑想はほとんど行っていない。このことから私にはどうにも悟りを開くのであれば瞑想ではない方法を用いたほうがいいのではないかと思うのである。もしかしたらそれでも瞑想の方が効率のいい人もいるのかもしれないが、それにしても効率は考えたほうがいいだろう。悟りが困難なものである間は結局苦しみから逃れられる人は世界の一部にとどまることになるのである。私は私の書いた方法がいずれ旧式の非効率なものと化すことに期待している。

 

無分別への囚われの破棄

私がこれを得たときは確か思考を手放すことすら煩わしく感じていたような気がする。あのときの自分の脳内ではいったい何が起きていたのだろうか?この段階について言えることは現時点ではこれ以上存在しない。

 


公案とは何か

公案は思考による解決が不可能な問題である。そのような問題について答えがでるまで考え続けることで、やがては思考という行為への囚われから脱することができるのである。公案の答えは直観的に把握される。考えるのをやめたらいいという考えは答えではない。答えが分からないというのも答えではない。公案の答えを手に入れるとそれ以降不要な思考がどんどん離散していくかのような状態になる。公案の答えがわかれば、他人に答え合わせをしてもらわなくてもその事実が明確にわかる。公案に取り組む際はその答えは必ずあると思いながらそれに取り組むこと、そしてその答えを出すために様々な工夫を行うことが大切である。公案の答えは実際に存在する。しかし事前に予測したいかなる答えとも違った性質のものである。(補足:公案に取り組む人がこれが答えだと思った場合、実際にはそれは間違いである。その人は分別により何らかの答えを出そうとしてしまう性質を断つことができていない。沈黙が答えなどと表現した時も「沈黙が答え」という分別を用いているのでそれは間違いである。何らかのイメージをもってこれが答えと考えたときそのイメージもまた言葉の答えである。)


公案の一例としては江戸時代中期(1700年前後)の禅僧である白隠慧鶴が作り出した、「両手を打ち合わせると音がするが、片手の場合ではどんな音がするのかを答えよ」という公案がある。公案に興味のあるものは試しにそれに取り組んでみてはどうだろうか。あるいは私が公案の答えを得たときに考えていたのは「世界を観測している私は実在するのか」という疑問であったが、それについて考えるのもいいのかもしれない。あなたは自分が世界を見ている存在であるという認識を持っているかもしれない。そして自身の内にある何らかの肉体感覚を指してこれが世界の観測者であると主張するかもしれない。しかし実際にはそれは手や足にある感覚と同じようにただの肉体感覚であり、自身が観測している観測対象に過ぎないのではないだろうか。あなたは観測者を観測することが本当にできるだろうか。観測者を観測できないのであればそれは本当に実在していると言えるのだろうか。

 

・公案のメカニズムに関する考察
公案の答えがあると強く信じて考え続ける人は公案を考えるのをやめるという選択を取ることができない。しかし公案について考え続けてもそれは論理的には解決が不能な問題であり答えが出るわけもないので、公案について徹底的に考え続けた人はやがて思考のすべての方向に行き詰まって考えることの継続もできない状態に陥る。そうして考えることをやめることも考えることを続けることもできなくなった脳は思考を強制的に停止させられることになり、図らずして精神的な平穏が訪れることになるのである。そしてその人はそれが公案の答えだったことに気が付き、思考を用いて答えを出すことへの囚われを断つことに成功し、その後は思考上の際限のない闘争にいそしむことはなくなるのである。(つまり、公案の答えを得た人は「答えを出さない」という答えを含めて一切の結論を出さない立場を取ることができるようになるのである)

以上のことを理解の上「公案の答えとは何か」という公案について考えるのもいいことかもしれない

 

 

悟り後

謙虚さを忘れてはならない。仏教の教えを理解したからといって他者より偉くなった気になってはならない。あるがままという点で誰もが対等である(これは無分別への囚われを捨てるところまで行けば分かる)。また、悟ったとしても無意味に自身が悟ったなどと言わないほうが良い。慢心や傲慢、無意味な固執を生むことにつながるだろう。私は自身が悟ったと明言したり断言したりするつもりはない。

悟った後も自分を十分に律する意思が必要である。悟ったとしても苦しみからいくらか解放されるだけで、精神的に強くなるわけでも人格者になれるわけでもない。例えば私はおそらく禅の核心を理解しているが、相変わらず驚くほど矮小な人間なのである。道義的に誤ったことを言ったり行ったりする可能性もあるだろう。だからこそ悟った後にも自分を十分に律し、精神的な成長は続けなくてはならない。

悟れば過剰な執着は持たなくなる。それゆえに他者との対立も減少する。しかし悟るだけでは他者を大切にする心を持つことにはつながらない。それを持つには自ら悟りとは別の努力をする必要がある。そしてその努力は他者のためにもなるがそれ以上に自身のためにもなるだろう。このことについては後の慈悲に関するの項目で詳しく説明する。それは悟る前から実施するべきものでもある。

 

悟りを踏まえての考察

執着について

執着とは何かを簡単には諦められないほどに強く求めてしまう気持ちのことである。その「何か」には、人や物だけではなく、それらの状態やそれらを取り囲む環境なども含まれる。仏教において執着は苦しみの原因である。何かを求める気持ちがあると、それが手に入らなかったときや、それを失ったときに苦しみが生じるのである。そしてその気持ちが強ければ強いほど、それが裏切られた時に大きな苦しみを生じさせることになる。私は禅の影響を受けて悟ることは思考を手放せるようになることだと言ったが、本来の仏教ではおそらく思考を捨てるというよりは執着を捨てることが重視されている。しかし思考を手放せるようになっているのであれば執着も捨てることができるので、その差は特に気にしなくていい。思考のないところでは執着はないので、思考が手放せる人はその気になれば執着も手放せる。だが、執着を手放すことは絶対に正しいことというわけではない。思考に囚われない人は、苦しむことを覚悟してあえて執着を持つ選択をすることもできる。当然執着を持つのであればその執着の対象が損なわれた場合に苦しむことになるが、もし何らかの執着を持つ生き方の方が好きであるのならそれを持つ選択をすることに問題はない。
 
執着する生き方を選んだのだとしても、やはり執着が無意味に膨らんでいくことは抑えたほうが良いだろう。執着は執着を呼ぶ。例えば家族を持つ場合、まずその家族を失わないことに執着するようになる。そして家族を失わないようにするために、今度は家族を守るためのお金に執着するようになる。そうなると、今度はお金を得るために必要な道具などに執着をするようになる。このようにしてある執着を持てばそこから新たな執着がどんどん増えていくのである。当然そのような執着の増加は抑制したほうがいい。そうしなければ苦しみの量がどんどん増えていくからである。そのためには、普段からよく自身が持っている不要な執着に気づくようにすることが大切である。そしてそのときに捨てられる執着の量は、既に紹介した「足るを知る」という考え方を実践することで増やすことができる。少ないもので満足できる人は、自身が持つ執着の大きさも少なくて済むのである。また、既に思考への囚われから脱している人は、ある執着についてそれが余計なものであると気づいてしまいさえすればそれを簡単に捨てることができるようになっている。


執着を捨てることを考える場合は、通常なら捨ててはならないと考えられている執着についても捨てることが可能であることを理解しておいた方が良い。ここではそれを配偶者への執着を例として説明する。仏教の戒律で配偶者を持つことが禁じられているのは、配偶者を持てば執着が生じ、執着が生じれば苦しみが生じるからである。苦しみからの解放を目標とする仏教においては、当然そのような事態を避けるために配偶者を持つことを避けるのである。しかし中には配偶者を持ちながら苦しみを減らしたいという人もいるかもしれない。私はその場合、その人は配偶者を持ちつつも相手自身や相手の状態あるいは在り方に対しての執着を断つようにすればいいのではないかと思っている。相手は自分の望みに反して死んでしまうこともあるし、時には相手が何らかの事件や事故に巻き込まれて強い苦しみを感じることになるかもしれない。しかしそのような場合においても相手が生きていることに執着したり相手が苦しんでいないことに執着していなければ、苦しみの発生を抑えることができるだろう。

この話を聞くと、私が配偶者を大切にしないことを推奨しているとんでもなく非情な人間なのではないかと誤解されるかもしれないが、私はそのようなことを推奨するためにこの話したのではない。私がこれに触れたのは単に愛する者が死んだり苦しんだりするのを見て苦しんでいる人の苦しみを和らげるためである。今そのような苦しみを持っている人は、先述した執着を断ってしまってもいい。相手への執着を断つことを相手への愛情を捨てることと混同する必要はない。相手自身や相手の状態に執着せずとも、相手を想ったり大切にしたりすることはできるし、逆に相手に同じようにされることも可能である。もっとも実際には配偶者を持った時点でどうしても多少の執着は生じると思われるので、本当に苦しみから解放されたければそのような人を持たないようにした方がいいだろう。また、もしかすると、以上の話を聞いた後に絶対に誤りのない理屈を作ろうとして苦しむ人間もいるかもしれないが、そのようなことにも囚われないほうがいい。理屈を構築することに際限なく囚われているといつまでたっても苦しみから逃れることができない。苦しみから逃れたいのならば「執着の気持ちを持たずとも、家族に執着している場合と同等以上に全力で大切にするということができる」ということを知っていれば十分だろう。そしてこの話は家族を持つ人の苦しみを低減するための話であり、家族に執着する人自体を批判することを目的とするわけではない。別に苦しんででも執着を持ちたいというのであれば執着を持てばいい。

 


欲について

ここで言う欲には快楽を求めるような欲(性欲や食欲など)ばかりではなく、痛みや苦しみを回避したいという気持ちも含まれる。欲もまた、それが満たされない状態は不快に感じられるものである。しかし残念ながら思考を手放せるようになり、さらに執着の放棄を選択したのだとしても欲が消えるわけではない。欲はどうやっても消しきれないのである。しかし思考を捨てられるようになると執着は消せる一方で欲は消せないのはなぜだろうか。私にはそれらの問いの確実な答えは分からないが、私はその原因は思考によって生み出されるものであるかそうでないかの差にあると考えている。おそらく執着はその対象となる「何か」を認識していなければ生まれないものなのだろう。だからこそ、思考を手放せるのであれば執着も手放せるのである。一方で、欲は思考がない場合にも現れるものである。例えば食べ物を長い時間食べなければ思考の作用に関わらず食欲というものは湧いてくることになるだろう。従って、思考を消せるようになったとしても欲を消しきることはできないのである。

とはいえ、思考によって誘発される欲があるのも事実である。例えば私はあるとき中学生の頃に楽しんでいたゲームについて思い出していたのだが、その後再びそのゲームを遊びたいという欲が猛烈に湧いてきたのである。私はこのように思考により生じる欲については、後に紹介する瞑想により言語の生成を妨げることで抑えることができると考えている。ただしそのような欲を抑えたい場合はそれが生じる前あるいはそれが発生してまだ間もない段階で、欲をもたらす思考を断つ必要がある。欲はは強くなってからでは消すのが難しい。おいしいものが目の前にあったとしよう。それを認識しなかった場合それに対する欲は発生しない。しかしそれを認識してしまった場合はそれに触発されて食欲が発生する。そして食欲が発生した後にそれを見なかったことにしようとしても遅いのだ。一度発生した欲は分別を捨てることを妨げる。だから欲を抑えたければ、欲が生じる前あるいは欲が発生した直後のそれがまだ弱いうちにその認識を絶たなければならない。その力をつけるために瞑想をするのである。(補足:十牛図の8や9の段階を経ても瞑想をせずに思考を使う生き方を選ぶのであれば、突発的な欲の発生を抑制するのは難しい。そして先述の通り一度欲が発生してしまえば、その後それを手放すのは用意ではなくなる。従って悟りを得たものであっても欲を抑えたければ瞑想をして欲の発生を事前に防ぐようにした方が良い。)


瞑想について

私は一応軽くではあるが瞑想について調査及び考察を行って、いくらか分かったことがあるのでそれについてここに紹介しておく。しかし私は正直なところ瞑想についても十分に詳しくない。私は今まで瞑想をしたことがあまりないからである。また、脳科学の知見も十分なものは持っていない。従ってこれから私が行う瞑想に関する説明は全く的外れなものである可能性もそれなりにある。どのような瞑想がいいのかを本当に知りたければ、仏教や心理学についてこれもまた自力で調べて把握してほしい。

瞑想には二種類の瞑想がある。第一の瞑想は思考の発生を抑えるための瞑想である。この瞑想は思考を消そうとする瞑想である。しかしほとんどの人にとっていきなりただ思考を消そうとするのは難しいので、とりあえず呼吸などの特定のものに集中することで他の思考を消すようにすればいいのではないかと思う。そして途中で余計な思考が湧いた場合はそれを追わず(それについてあれこれ考えずに)にまた集中するべきものに集中すれば良い。途中で何度失敗しても気にする必要はない。ある程度の時間ただそのように瞑想を続ければ、瞑想後しばらくの間余計な分別を生じさせない傾向を脳に生じさせることができる。

第二の瞑想は情念(ここでは快不快、欲、感情などを意味する)の発生を抑えるための瞑想である。私はこの瞑想を行う時には今自身に起きていることを次から次へと言葉で実況するという方法を用いている。そしてその中でもし自身に何らかの情念が発生した場合は、その情念に囚われてそれを感じ続けるようなことはせずに何故その情念が湧いたのかをただ言葉で分析しすることにしている。このような瞑想を行うと、自身の脳に情念を無視して言葉で分析する癖がつくようになり、その後しばらくの間は世界を冷静に見ることができるようになるのである。

これらの瞑想する際は途中で自身の注意がそれることを防ぐために、あらかじめ自身の周りから余計なものを取り除いておいた方がいい。しかし、それができない場合は無理に環境を整えようとせずに、いつでも気が向いたタイミングで瞑想をするという方針をとることもできる。瞑想は目を閉じずともできることであり、仕事中のふとした間時間にもできることである。安全を確保しているのであれば場所や時間に過度にこだわる必要はない。瞑想は短時間でも強い効果を得ることができる。私の場合は数分程度でも数十分以上はその効果が持続する。


だが私は以上の瞑想を絶対に行わなくてはならないものであるとはみなしていない。なぜならば瞑想はそれを行った人の創造性を低下させる可能性があるからである。私は思考法の章で拡散思考が大切だと説明したが、言葉の発生を押さえることでその能力が低下することを危惧している。実際に世の中には瞑想により発想力が低下した人もいるらしい。また、情念の想起を抑える瞑想についても同様に想像力の低下の懸念があるのではないかと考えている。私は何らかの作品を作る場合は怒りや悲しみに吞まれながら作りたいのだが、第二の瞑想を行えば自身の感情を高ぶらせる能力が低下する恐れがある。私はこのようにデメリットが生じる可能性があるので必ずしも瞑想をすることを推奨するわけではないのである。しかし一方で瞑想が必ず自身の能力を低下させるのかと言われたらそういうわけでもない。やはり余計な思考や情念が生じるのを防ぐことは集中力の向上の効果をもたらすのである。そして集中力が上がれば当然特定の作業を終わらせる速度は上がることになる。従って瞑想についてはそれを全面的に良いものあるいは悪いものであると捉えるのではなく、必要に応じて瞑想を使い分けることが大切だろう。集中力が欲しい場合は瞑想をすればいいし、発想力や感受性を重視したい場合は瞑想を停止すればいい。私は集中力がなさすぎるので最近は日常生活にほんの数分程度の瞑想をちりばめるようにして組み込んでいる。

瞑想をしてしまったらもう戻らなくなるのではないかと考える人もいるかもしれないが、私はその恐れはないのではないかと思っている。私の経験では一度瞑想をしても、瞑想をやめればしばらくしてその効果は消失する。私は長時間の瞑想を継続的に行ったことはないのでそれをした場合にどうなるかは分からないが、多分その場合においてもしばらく瞑想を停止すれば瞑想の効果は消えていくと予想している。仮に何もせずに戻らないのだとしても、瞑想の逆の効果を生じさせる技術もあるはずである。


慈悲について

この項目はあとから追記する。


苦しみからの解放の限界

結局のところ思考も執着も欲もどこまでいっても完全に消せるようになることはない。しかし私は過剰にそれらを持つことを避けられるようになったのであれば十分なのではないかと思っている。苦しみから逃れたいのであれば、思考、執着、欲、そして苦しみからの解放への囚われの手放しを各自必要な範囲でやればいい。


言葉に囚われない人

言葉の世界に囚われる人は、自身の考えの整合性を保つために肯定するべき考えを否定することがよくある。一方で、言葉の世界に囚われない人は、特に理由がなければそのようなことはしない。そのような人は複数の良い考えの間に矛盾が生じる場合、労力をかけてでも矛盾を解消した理論を新たに構築するべきであればそれを作り出すが、そうでなければ矛盾する考えをそのまま内包するのである。

言葉への囚われから脱した人は、矛盾のない理屈を作ることにも逆にそれを作らないことにも囚われない。誤解を生じないように補足しておくが、その人は矛盾の受容という行為を絶対の正義であるかのように扱ったりしないし、矛盾を受容していいという考えを根拠にして矛盾した理屈の正しさを証明したりすることもない。

言葉の世界を手放せるようになったのだとしても何か特別なことがわかるようになるわけではない。自身が作り出したものについてそれが自身が作り出したものであると気づくこと、そしてそれを手放すことができるようになるだけである。


老子の思想

中国人は歴史において中国に仏教が流入してきた際に老荘思想を通してそれを理解したらしい。それゆえに中国から仏教の思想を受け取った日本の仏教は老荘思想の影響を受けたものとなっている。私が仏教の説明の際に老荘思想を取り上げたのはそのためである。

以下は個人的に特に気に入った老子の教えの一部である。
・禍の裏には福が隠れている。福の裏には禍が隠れている。禍と福とを単純に分けて取り出すことはできない。人々が物事の判断に迷うのはそのような事情を考えれば当然のことである。だからこそ特定の態度が行き過ぎて人々を傷つけるようなことのない道の立場に立つべきなのである。

・物事はまだ小さなうちに対処したほうが良い。聖人はそれにより大きなこと為そうとしていないにもかかわらず、大きな事業を成し遂げることができるのである。


老子は水のような生き方を善としている。水は万物に利益を与えながら争わず、誰もが嫌だと思う低いところに落ち着く。私は老子の思想を参考にし、根本的に柔である生き方(水のように世界に逆らわない生き方)を選択したいと考えている。時として剛としての生き方(世界を自身のために制御する生き方)も選択するが、それは柔に基づいて発揮するものである。

 

幸福について

以降は私個人の幸福に関する見解である。
・起きた不幸についてそれを悪いことだと認識する必要もなければ、無理に良いことだと認識する必要もない。
・まだ起こってないことについても既に起こったことについても苦しむ必要はない。ただするべき対策と対処をするだけで良い。
・幸福は完全である必要はない。もともと完全な幸福というのはあり得るものではない。
・何か不幸があったのだとしても他の得られるはずの幸福まで捨てる必要はない。
・苦しみを消そうと必死になることで逆に苦しみが増すこともある。そのような場合は無理に苦しみを消そうとする必要はない。
・世界には自分がどれほど強く望んでも解決することが不可能な問題というのが存在する。それについて過度にどうにかしようとしてはならない。
・汚れを避けることや汚れを落とすことに過度にこだわるべきではない。人には何かしら汚れがあるのが普通である。
・生存のための過度な努力は逆に自身を不幸にする。その努力は自身の幸福にとって最適となる程度に留めるべきである。

・精神的に苦しい時は自身の内部にある不安をメモに書き連ねて明確にすることで大幅に精神を安定させることができる。

・日常の些細な活動を楽しむこと
自身に何か強くしたいと思えることがあるのだとしても、それ以外の行いが自身の活動の時間を奪う行為にすぎないと思い込む必要はない。自身の主な目標には直接関係のない活動であってもそれを楽しむことはできる。やると決めたのであれば、それをしている間は目標のことなど忘れてそれを楽しんだ方が良い。家事などの日常的な仕事については、仮にある程度急いでそれをするのだとしても楽しめる程度には余裕を持つようにするべきである。それができないほど余裕のない生き方はしないほうが良い。


他者との関係について

以降は私個人の人間関係に関する見解である。

・嫉妬は自身が求めている評価が他者に与えられているときに生じる感情である。嫉妬に対するもっとも良い対策はそもそも誰かの評価を求めることをやめることであり、次善の策は相手の実力を自身より高く評価することである。

・自らを誇ることで他者を傷つけてはならない。

・自身の実力は不必要に他者に示すべきではない。

・誰かに称賛された時に相手に感謝の念を持つのは良いが、優越感に浸るようなことはするべきではない。
・相手の欠点についてはそれが事実であっても不必要に指摘してはならない。もし指摘するのであれば言い方には十分な注意を払わなくてはならない。
・他者について善人あるいは悪人の判定を下すのは控えたほうが良い
・相手に報復しなくてはならないと思い込んではならない。
・相手に自身の考えを分からせてやらなければならないと思い込んではならない。
・相手の心を読みすぎる必要はない。相手が心の中で何を思っていようがこちらが想像しなければないのと同じである。
・お互いに相手の意志を尊重しなくてはならない。相手に要求されたことでも嫌なことであれば断っていい。逆に相手が嫌がっている行為を無理にさせてはならない。
・相手が自分と違うことを理由にその人を馬鹿にしたり排除したりしてはいけない