世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第七章:対話

 


対話の態度

対話力の向上について

対話の能力はすぐに身につくわけではない。考えついた複数の対話の技術を同時に使用するためには、各技術を無意識下で実行できるようになるまで繰り返し使用しなければならない。いきなりすべての技術を使いこなすことは難しいので、より重要なものから一つずつ身に着けるようにするといいだろう。

話が通じないと思ったときにすることは相手を攻撃することではなく自身の対話の技術を向上させることである。話しが通じない原因が単に自分の説明不足であることも多い。(ただし対話の能力が人によって違うことは受容されるべきことであり、無理をして必要以上の技術を身に着ける必要はない。対話力以外にも大切なものは存在する。)

 

対話における忍耐の必要性

社会をよりよくするための考えを相手に伝えるために対話を行っても、その考えが相手に受け入れられないことは数多くある。しかしその場合でも憤ってはならない。一度の対話で伝えられる情報量には限界があるため、そもそも少ない回数の対話で直ちに相手を変えられないことは当然のことである。世界を変えたければ地道に情報発信や対話を続けなくてはならない。自身の望みを押し通すための対話であればそれを継続したとしても世界が思うように変わるとは限らない。しかし主張内容が真に社会を良くするものであればやがては世界を変えることに成功するだろう。

相手の説得に9回失敗したのだとしても、最後の一回で成功すれば十分である。あるいは相手の説得に99回失敗したのだとしても、最後の一回で成功すれば十分である。もし相手の説得に失敗したのだとしても再び準備をして対話に臨めばいい。相手が納得してくれなかったのだとしても、焦りから相手の人格を攻撃するようなことをしてはならない。そんなことをすれば相手はもう二度と話を聞いてくれないかもしれない。

 

言い負かすことと正しさの関係

相手を言い負かした者の考えが正しいと思ってはならない。世の中には、私のように頭の回転速度の遅い者や言い負かされないようにする技術の低い者がいる。しかしそれらの人々の中にも優れた考えを持つものは数多くいる。もし社会に相手を言い負かしたほうが正しいという風潮があるのであれば、それらの人々の考えは頭の回転速度の速い者や相手を言い負かす技術に長けたものに排除されることになるだろう。対話を行う者及びそれを見るものは、相手を言い負かした者が正しいわけではないということをよく理解しておくべきである。

小さな無礼を気にしない

お互い相手の些末な無礼を気にしてはいけない。お互いに配慮を求めすぎる社会では何かを言うことが難しくなる。仮に相手がこちらの小さな無礼を咎めるのだとしても、こちらは相手の無礼を気にしないようにした方が良い。

相手の間違いを許容する

間違った主張をした人が馬鹿にされたり攻撃されたりする状況においては、誰も安心して何かを主張することができなくなくなる。間違いによって生じる損害の程度にもよるのかもしれないが、相手が間違った主張をしていたのだとしてもそれを悪く言うようなことは基本的に避けるべきである。また、他者の考えの内に自身に損害をもたらし得る誤りがある場合に人々が憤りを感じるのはやむを得ない側面があるが、それについてもお互いにお互いが同じようなことをしているということを理解し相手を怒りを感じることはしないようにするべきである。自分にとって重要な権利に関わる議論においてこそ冷静さを保つ努力をしなくてはならない。

タブー

自身を取り囲む環境次第では、行うべき主張が行い難い場合がある。しかしもしそれが本当に主張するべきものであるのなら、それを主張する努力はできる限り行うべきである。例えば主張の行い方を相手や社会にとってより受け入れやすいものにすることで、自身に主張できる範囲を増やすことは可能である。また、現在主張可能な範囲の発言を駆使して環境の変化を進めたり、周囲の様子を見ながらそれらに受け入れられる主張方法を少しずつ探ったりすることによっても、徐々に自身が主張可能な範囲を拡大することが可能である。もし自身に主張を阻害する圧力を突破することができないのだとしても、その圧力に加担して他者の邪魔をするようなことは避けたほうがいい。

社会やある集団の内部において非道徳な行為が行われている場合は、その行為への批判を封じる圧力が存在したのだとしてもできる限りその行為に反対の声を上げるようにしなければならない。非道な行いに対して内心ではおかしいと感じている人間が多いのであれば、誰かがそれに反対の声を上げることでそれらの人々が蜂起しやすくなるはずである。より多くの人が声を上げることでその可能性もより高まるだろう。

 


対話が通じない相手から身を守ること

世界の諸対立について、そのすべてが対話によって解決できるとは限らない。例えば世界には何者かをその人との対話を一切行わずに一方的に暴力を使って排除しようとする人間も存在するが、そのような人に対しては必要に応じて対話以外の手段でもって身を守らなくてはならない。対話による融和は大切であるが、それが通じない相手から身を守る力もそれと同様に重要である。しかし対話以外の手段で解決する場合においても、できる限り平和的手段で解決するように努めなくてはならない。また、対話以外の手段を使う場合でも対話は継続的に行うことが望ましい。対話の通じない攻撃者への対抗手段としては法による処罰などが存在する。

 

 

対立を解消するため対話

言い負かしたほうが負け

対立を解消するための対話においては相手を言い負かした者が負けである。融和のために対話を行う者は、相手を言い負かさずに自身の考えを相手に伝える技術あるいは対話を前進させる技術を身につけなくてはならない。また、相手が納得しないうちに無理やり言いくるめるようなことをしてはいけない。

 

真の望みの分析

対立を解消するための対話においては、表面的な意見のやり取りのみでは問題の解決が難しい場合がある。その場合は相手の真の不満や真の望みを分析し、それに基づいた提案を行わなければならない。


相手を馬鹿にしない

相手が間違ったことを言っていたのだとしても決して馬鹿にしてはいけない。馬鹿にすれば相手はより頑固になり話をすることが難しくなる。相手が誤りを認め意見を変容させた場合に、その誤りを持ち出して相手を悪く言うようなことをしてはならない。

相手を馬鹿にするとその行いが自分の身に跳ね返ってくることが多い。なぜならば、相手を馬鹿にした人間はその後に自身の間違いに気づいた場合に素直にそれを認めることが難しいため、無理な理屈を必死に作り出して自身の考えを肯定するはめになるからである。したがって、自身のためにも相手を馬鹿にすることは控えるべきである。

譲歩について

利害による対立が生じた場合、それが自身にとって重要な問題であるのなら安易な譲歩は避けたほうがいい。確かにこちらが譲歩すればするほどより簡単に対立を解消することができるようになるが、現実的な問題として一方的に譲るばかりであれば最終的に自身の側が理不尽な搾取にさらされる可能性がある。さらには対話を十分に行わないことにより、お互いにとってより良い案があるにもかかわらずそれを見落とす可能性も高くなる。

私は譲歩はしないほうがよいと言っているわけではない。対立の解決のためにはいずれは譲歩が必要になる。しかし自身の破滅を避けるためには譲歩に慎重になるべきときもあるのである。一方で日常の小さな利害の対立であれば基本的に自分が譲るという態度でも良い。それは結果的に自身に平穏をもたらすことになるだろう。

 

十分な準備をすること

相手を本当に変えたいのであれば、相応の準備をする覚悟が必要である。自分自身でも自分の主張の根拠をよく知らないのに相手を変えようとしても失敗するだけである。

尊重の対話

世の中には自身の間違いを認めたくないがために、その誤りを指摘する人の主張を何が何でも否定しようとする者がいる。特にインターネット上においてはそのような状態になっている人が多いように思われる。しかし私はそのような人とも効果的に対話を行うための方法をいくつか見つけることに成功した。その方法とは次のようなものである。


・十分に相手を尊重し、敵意がないことが伝わる発言を適度に繰り返しながら対話すること。私はインターネット上で政治に関する論争を行ったことがあったが、相手に攻撃的なことを言ったり相手を言い負かしたりすることにより相手を変えることに成功した例は一度もない。しかし、相手を尊重する態度を継続的に示しながら対話することで、相手の考えをその場で十分に変えることには成功しなかったものの、ある程度は相手に話が通じたと感じられることは複数回存在する。

・自身の主張をできる限り分かりやすく明確に行うこと
自身の主張を行う際は、根拠、証拠、情報を十分に集めたうえで、根気強く相手にわかりやすい形で説明しなくてはならない。分かりづらければ相手は理解してくれない。本当に相手を変えたいのであれば労力を惜しんではならない。また、自身一人では相手を説得できるほどの考えを思いつかない場合はそれを他者と協力して考えることが可能である。

・相手の考えを全否定するのを避けること。
相手の考えを全否定することを避けるために、相手の考えの内賛同できる点は賛同し、こちらが改めるべき考えについては改めた方が良い。しかし賛同してはならないところまで賛同しないように注意しなくてはならない。

また、ときには一切の否定を差し控えることも検討する価値があるかもしれない。カウンセリングにおいては相手の考えを否定しないという方法が用いられているらしいが、これは相手が精神的な病に侵されていない場合にも通用すると思われる。

 

・相手に質問してみること
ときには相手がなぜその考えを持つのかを相手に語らせることも必要である。相手に質問をすることで相手が自ら何らかの良い気づきを得る可能性もある。ただし、質問は問い詰めるような形で行うべきではない。それはあくまで相手の考えを知ることを目的として行われるべきである。そうすれば自身が知らない相手の内心を知ることができ、それをもとにより効果的な提案を行えるようになる可能性がある。


・相手の考えを変えることに過度にこだわらない
相手の考えをすぐに変えることに拘るべきではない。対話は相手をすぐに変えられなかったのだとしても無駄にはならない。対話の過程で相手に伝わった情報が、後々相手に影響を与える可能性があるからである。また、特に相手が自身の考えに強く固執している場合、その人を他者の前で変えようとするのはやめた方がいい。人前で話さざるを得ない時は、相手を変えるところまではやらずに、自身の考えの主張と相手の主張を否定せずに疑問を投げかけるに留めると良いだろう。

中には絶対に変わらないつもりの人間もいる。その場合は変わってくれる人を変えるしかない。

 

議論

議論の目的

議論は自分の考えを分からせることを目指すのではなく、相手と協力してより良い考えを見抜くことを目指して行うべきである。自身の考えを絶対に正しいと思いながら議論に臨んではならない。

必要な議論は積極的に行ったほうが良い。議論を行うことでより良い考えをより早く見抜くことができるようになる。議論を積極的に行えば、議論の準備の際の情報収集や議論中の情報交換により必然敵に議論の参加者の知識や情報は増加し、さらにはそれらの人々が自身の考えの誤りに気付く速度も速くなるからである。一方で、議論はそれをすること自体を目的として行うものではない。

議論の準備

本格的に議論をする場合は準備はしておいた方がいい。議論中に考えられることはそんなに多くはない。高度な考えは事前に準備して初めて議論中に述べられるようになるのである。


人格攻撃をしないこと

人格攻撃をしてはいけない。もし人格攻撃を行う者がいれば周りが制止することで、人格攻撃を認めない空気を作り出す必要がある。また、誰かの意見の正誤をその人の人格で判断してもいけない。

 

自身の考えと異なる意見を抑圧しないこと

議論はお互いにお互いの案の問題点を簡単に指摘できる状態でおこなわれるべきである。自分一人で考える場合、自分の意見を破壊して作り直すことを避けたいという気持ちがはたらき、自身の意見の問題点について甘く判定しがちである。しかし議論の際に自身の考えを否定する主張を排除せずに聞き入れることで、その問題点を修正することができるようになるのである。これは俗に言う「悪魔の代弁者」である。


完全な主張を作ることの限界

私には絶対に正しいといえる主張を作ることは実質的に不可能であるかのように思われる。しかし完全は無理でもより確実性の高い結論を出すようにすることはできるはずである。議論をする際はより確実性の高い情報をもとに、より確実性の高い結論を出すように努めると良い。

根拠を際限なく求め続ければ、全ての主張はいずれ行き詰まる。従って相手を言葉に詰まらせたければ、相手の主張の根拠について際限なく質問し続ければよい。しかしお互いにそのようなことを続けるのであればいつまでたっても話が進展することはない。それを防ぐためにも、お互いに内心では正しいと認識している情報についてまで、真実を見抜くことではなく自身の主張を押し通すことを目的としてその根拠を問いかけるようなことは避けなくてはならない。

質問攻めにされた場合答えることが難しくなるのは誰でも同じである。相手が質問に答えられなかったことを理由に、相手を勉強不足であると罵ったり相手が間違っていると主張したりしてはならない。

 

情報不足下における議論

情報不足あるいは知識不足の問題について安易に断定的な主張をするべきではない。しかしそれは自身が詳しくない分野については意見を述べるべきではないということを意味しない。自身が情報不足の状態であっても、自身がその時点でどのような情報を持っているのかを示したうえで、その情報が正しい場合に自身がどのような考えをもつのかということを語ることは可能である。

また、情報不足下においても相手に対して質問を行うことは可能である。自身の主張を述べられる状態にないのなら、相手に対してその人がどのような情報と考えを持っているのかを質問して自身の見識を深めることができる。

 

証拠を示せない経験則

証拠を示せない経験則を議論で持ち出すことは無条件に否定されるべきことではない。証拠を呈示することができなくとも、傾聴に値する経験則というのはあるはずである。ただし、当然証拠を示せないのであれば相手がそれに納得できないことはやむを得ないことであると言える。その法則があることに納得できない相手にそれがあることを認めさせたいのであれば、お互いが共有している経験則を元にしてその経験則を証明したり、信頼性のある実験(その実験は、少なくとも実験者が自身の利益で実験結果を改変する可能性が低く、結果に偶然の可能性がなくなる程度に繰り返し行われる実験である必要がある)などによってその経験則を実証する必要がある。また、何らかの経験則を提示した者はその法則を絶対の事実と思い込んではならない。自身の都合のためにありもしない事実を無理に正しいものとしようとしてはならない。

お互いの間で既に共有されている経験則については、それについて相手に納得させる作業をせずともそれをもとに議論を展開することができる。ただしそれについても絶対に正しいと思い込んではならない。


議論の質の向上

議論の品質を高めたければ間に考える時間を用意したり、複数回に分けて議論を行ったりした方がいい。議論の最中に得た情報をまとめた上で考察を行う時間をとれば、議論中に出た考えを基にしてさらに発展した議論を行うことが容易になる。

 

検証の時間の必要性

議論の最中に自身の考えの誤りやより優れているように見える新たな考えを知ったのだとしても、その場で自身の考えを変える必要はないし相手に対しても直ちに考えを変えるように迫ってはならない。新しく知った考えが本当に良いものであるかについては検証の時間を取らなければ判断はできない。

 

 

討論について

討論とは、私の勘違いでなければ、自身と相手の相反する意見を戦わせてどちらが正しいかを決める形式の議論である。

討論の過程で得た見識を判断の材料にするのはいいが、討論の勝敗で物事の正しさを判断してはいけない。討論もまた頭の回転速度の早いものやその技術を高めることばかりに多くの時間を割いた者が有利になる対話形式である(※これは準備をした人が有利になることの否定ではない)。討論の勝敗で正誤を判断するのであれば、そうでない人々の主張はそれが正しかったのだとしても排除される可能性が高くなるだろう。

討論の効果

私は討論は人々の対立を修めるどころか増長させるのではないかという疑念を持っている。もしかすると感情的な対立のある時は討論という手段は使わないほうがいいのかもしれない。

一方で私は討論には何のメリットもないと考えているわけでもない。議論と同様にこれを積極的に行うことで必然的により良い考えを見抜く速度が速くなると考えられる。また、自分の身を守ることだけを考えるのなら、討論は強いに越したことはない。政治家は特に最低限は討論の技術は身に着けておいた方がいいだろう。

そして、私は教育においての討論も行う価値があるかもしれないと思っている。教育において討論を行うことにより、人々の詭弁を見抜く能力、詭弁を指摘する能力が上がるかもしれない。また、自身の主張をわかりやすく組み立てる技術もつくと思われる。ただし、身に着けた討論の技術を悪用してはならない。相手を弾圧するために使ってはならない。相手との対話において求めるべきは公正であり、相手から利益を奪うことではない