世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第十章:世界平和を実現する方法(未完成)

 


道徳システム


●善悪の形成
世界に絶対に正しいといえる価値観が一つも存在しないのだとすれば、人を殺してはいけないという価値観も絶対に正しいとは言えないことになる。しかし我々の社会はそれが原因で人を自由に殺すことが認められるようになることはない。

もし仮に人殺しが禁止されていない状態に人々が置かれたとしよう。この場合、人殺しが禁じられている社会と比較すると、人々は他者に殺される可能性が高い状態にあるといえる。しかしこのときの人々は当然死を回避したいと思う気持ちを持っているので、人殺しが認められない社会を作り出そうと動きはじめるはずである。その結果、人々は人殺しは悪いことであるという価値観を作り出してそれを支持し始めると同時に、人を殺してはならないというルールを作りそのルールを破ったものには罰を与えるようになるのである。この際にその価値観が世界の真理として正しいかどうかなど関係はない。仮に人殺しが悪くないという価値観が絶対的なものでなくとも、人々はお互いが死なないようにするために人殺しが悪いという価値観を支持するようになるのである。

このようにして、人々は絶対に正しいといえる価値観がない状況においても必然的に善悪の価値観を作り出してそれを支持しはじめるのである。従って我々は絶対的価値観がない状態においても道徳が消失することを危惧する必要はない。

 
・善悪に基づいた法や制度の形成
人々はお互いに同じ種族であるので、多くの共通の性質を持っている。そして共通の性質を持っているがゆえに、多くの共通の善悪を持つようになるのである。そして人々が同じ善悪を持つようにあった後には、必要に応じてその価値観に基づいた理想を実現するための制度が作られることになる。例えば、多くの人が共通として善と見なす行いは社会的に推奨され、場合によってはそれは社会保障などの制度により実現が目指されるようになる。また、多くの人々が共通して悪と見なす行いは社会的に批判され、その悪の程度がある閾値(しきいち)を超えるとそれを禁止する法が作られるようになる。


●道徳の生成に影響を及ぼす要因
道徳の形成にかかわる人の共通の性質は無数にあると考えられるが、私はそのうち主要なものとして「利益獲得性向」「損失回避性向」「共感性」「公平性」があると思っている。


・「利益獲得性向」及び「損失回避性向」
文字通り利益を求める性質と損失を回避する性質である。先ほどの人殺しを否定する道徳は、お互いの損失を回避する性質により生み出されたものである。

 

・共感性
人間には個人差があるがおおむね相手に共感する性質が備わっている。人はその性質により他者が傷ついたときに自身が傷ついたかのように感じることになるのである。そしてその結果、人々は他者が苦しまないようにするための行動を起こし始めることになる。社会で他者を傷つけることを悪とする価値観や他者を攻撃することを禁じる法律が支持されているのはその行動によるものである。

共感の対象は人だけではなく動物にまで及ぶ。動物を楽しむために痛めつけたり殺したりすることは現在ほとんどの国で禁止されているが、それは動物への共感が働いているからである。おそらく人により近い生物であるほど人にとって共感の対象となる可能性は高くなる。

相手を敵とみなしてしまうと共感性が働かなくなり争いが生じやすくなる。世界から争いを無くしたければ、人々が人類を敵と味方に分けることをやめる努力をする必要がある。


・公平性
力のある者は力のない者に対して不公平な利益の分配を押し付けることができる。そしてそのように自身の都合の良い分配を押し付けられる側の人間が、公平性を積極的に実現したいと思うことはすくない。しかしそれではなぜ今日においては多くの人が公平性の考え方を支持するのかというと、もし不公平を肯定する理屈を用いて誰かから利益を奪う者がいるのであれば、その人は自身が力のない側になったときに利益を奪われることを否定するのが難しくなるからである。

かつてのように君主制の時代であれば、為政者が自身が力のない側になることがまれであり公平性を支持する理由がないために政治において公平性の価値観が支持されがたい状態にあったといえる。しかし、現在の民主主義国家においては万民平等の理念があるために誰もが自身が力のない側に立つことのある状態におかれており、それゆえに人によって程度の差はあるものの多くの人がある程度の公平性を求めるようになっている。そしてそれが政治における公平性の実現につながっているのである。

 

補足1:人が公平性を求める理由は、自分の利益のためだけではない。共感性から相手に理不尽な要求を突きつけることを控えようとして公平性を求めることもある。また、相手からの積極的な協力を得るために公平性を求めることも多い。

補足2:公平性を極端に追及しすぎると、逆に多くの人にとって窮屈な世界になる恐れもあるかもしれない。もしそうであるのなら、公平性の追求は適度に抑えるのがいいだろう。しかしそれを理由として何者かが度が過ぎる不利益を被るような状態は、社会保障制度の充実などによって避けなくてはならない。

 


●我々が成すべきこと
以上の説明は道徳がどのように発生するのかの説明であり、我々がどうするべきかの説明ではない。この項では我々のするべきことについての個人的見解を解説する。

○より良い考え方を見つけること、より良い制度を作ること
人は、今の制度よりも優れた制度があるのだとしても、その存在に気づいていないうちはそれを支持することはできない。また、仮に自分が今より優れた制度を知っているのだとしても、他の人々にその制度の実現が自身の損失につながるという誤解があればそれを制度化するのは難しい。社会をより良いものにしたいのであれば、まずは優れた制度を見つけ出し、次にその制度がいいものであるということを多くの人々に伝えるようにしなくてはならない。

同様に、人々は今社会に普及しているのよりも良い考え方があるのだとしてもそれを知らないうちはそれを支持することができない。人々にとって良い考え方を見つけ出しそれを認知させることも大切である。


○主観的判断

もし多くの人が赤い色を見ると日常生活に支障をきたすほど不快な気持ちになるという場合は社会に公の場で赤い色を出すことを控えさせようとするルールが作られることになるだろう。しかしある人間の集団が実際にはちょっとしか不快にならないものを自身が気に食わないからという理由で封じようとして、それが生活に支障をきたすほど不快なものであると主張し始めたときはどうだろう。その人たちの表面の言動だけ見ればそれは規制するべきものとなるが、その人たちの内面まで見ればそれは規制するべきではないだろう。しかしその区別を我々人間社会に行うことはできるのだろうか?これについて現実的には完全に読めるものではないというほかない。だからそれを法的に規制するかどうかについて考える場合は、その人たちのいうことのみを信じるのではなく他の情報も集めて総合的に判断するべきである。だがこの際表面的な理屈の言い負かしあいに囚われてはならない。国民のそれぞれがそれを規制するべきかそうでないかについて冷静に判断するようにつとめるべきである。その後その判断は投票によって政治に反映されることになるだろう。


○法規制について
安易に法や規則で人の行動を縛ろうとするべきではない。それぞれの人がどう行動するかについて、法ではなくそれぞれの人の良心に決めさせた方がいいこともある。人類の存続にとって大きなリスクのある行為については厳しめに規制しなくてはならないこともあるかもしれないが、基本的には法による制限はできるだけ少ない方がいい。


○他者を思いやる気持ちを持つこと
我々が人々の平和や幸福のためになせることは、決して法による強制力ある制限や警察による犯罪者の取り締まりばかりではない。もし人々がお互いに相手のことを大切に思うようになれば、自ずと誰かに憎しみを感じる人は減り、他者を積極的に助けようとする人は増えるだろう。誰かを敵にしてはならない。人類全員が自身にとって大切にすべき存在である。他者を大切にする方法については後に悟りに関する章でより詳しく説明する。そこでは相手の苦しみを和らげようとすることは他人のためだけではなく自分のためにもなるということについても説明している。


●その他個人的見解
・少数派を弾圧することを肯定する社会においては、何ものも少数派に陥ることを恐怖しなければならなくなるだろう。自身のためにも少数派を弾圧することは避けるべきである。

弾圧される少数派がいる場合、その人数の少なさから当事者のみでその弾圧に抵抗することは難しい。従って、その弾圧を止めるためには当事者でない人々も積極的に動かなくてはならない。それは自身が少数派に回った場合に他者に守られることにつながるだろう。


・相手の意志を無視して何者かを迫害する者は、自身の意思を無視してその迫害が止められることを覚悟しなくてはならない。

・先述した通り人間はそれぞれ共通した性質を持っていることから、おのずと多くの時代地域で同じような道徳を導き出すことができると考えられる。従って、私は異なる時代あるいは異なる地域の人間と話すときも、基本的な道徳については既に共有されているものと認識して対話を行う。そして、もしお互いの持つ道徳に重大な不一致が存在する場合は、一緒に道徳について考えることでお互いの道徳を向上させることを試みるつもりである。

 

・私は自身を含め人々がある程度のエゴを持つことを受容する。ここでいうエゴとは他者に損失が生まれる可能性があることをことをわかっていながら自身の利益を求める心のことである。例えば子どもが幸福になる保証はなく苦しみに満ちた人生を送る可能性があるのに、子どもを子ども自身の同意を得ずに一方的に作ることはエゴといえる。あるいは人は生きているうちはどうしてもいくらか生き物を殺してしまうのだが、それにも関わらず自然にある寿命に満足せず医療に頼って長く生き続けようとすることはエゴといえるのかもしれない(どうせ人は死の苦しみを味わうのだが、他の生き物のことを考えるのであればそのタイミングは早い方がいい)。しかし私はそれらのエゴを消しきらないことを悪とはしない。これは単に私の心の弱さなどからくる結論である。私には完全に自身のエゴを抹消した人間になる覚悟が持てないのである。私は自身に対しても他者に対してもエゴを完全に根絶することは求めない。ただし、これはエゴを野放しに来ることを意味しない。私は自分にできる範囲でエゴを減らす努力を行い続ける。他者に対しても自身と同程度の水準までエゴを減らすことを求めはしないが、度の過ぎたエゴを持つことについてはやめることを求める。0か100かの思考に陥るべきではない。また、自身が他者の損失を無視して利益を手に入れるのであれば、逆の状態になったときにそれを止めるように言っても納得してもらい難くなることは理解しておいたほうがいいだろう。例えばある人が「他者を殴りたいから殴る。そのエゴを受容しろ」と言ってみたとき、相手が自身を殴りたくなった時にそれをやめるように言っても説得力は大幅に失われているのである。エゴを持つことをいくらか受容するとはいえ、その程度については節度あるものにするべきであることを忘れてはならない。

エゴは別のエゴによって封じられ得る。

 

道徳の攻撃性あるいは排他性

人々の中には自分が常に道義的な高みにいるかのように見せかけようとするものがいる。そのような人間は自身の非を指摘されるとそれを認めたくないがあまりに今度は相手の人格を攻撃し始めるのである。道徳に限らず何かについて誰かと話すときには、自身を相手と対等な立場あるいは相手より低い立場において話したほうが良い。


道徳について仮に自身が相手よりも良いと思われる考えを持っていたのだとしても、相手を道徳的に遅れた人間として馬鹿にしてはならない。そのような場合はその考えを対話によって相手に伝えればいいだけであり、相手をわざわざ見下す必要はない。真に優れた道徳は、道徳を用いて相手を見下すような人ではなく道徳についての対話を地道に継続できるような人に宿る。

 

一見すると道徳に反するかのように見える考えであっても、その考えを安易に切り捨てるようなことは避けるべきである。議論の項目においても述べたことだが、異なる意見を聞く耳を持つからこそ優れた考えが生まれるのである。

 

・その他個人的見解
寛容の精神を肯定しようとする場合、不寛容に対しても寛容でなくてはならないかのように思われる。しかし不寛容に対しては不寛容と但し書きをすることにより、寛容を肯定しながら矛盾せずに不寛容を拒否することができる。しかし不寛容に対しては不寛容と言い切ってしまうのは過激な思想を生み出すもとになってしまうかもしれない。従って私は不寛容に対しては制限付きの寛容ぐらいの認識でちょうどいいのではないかと考える。しかしそもそも何事も言葉に縛られるとほころびが生まれるものであるので、厳密な解釈はほどほどにしておいた方が良いだろう。

 

 

反差別

 


盲信

盲信とはある考えを疑わずに信じることである。盲信は対話での解決が不可能な致命的対立を生じる恐れがある。我々は自身が持つ盲信の数を極力無に近づけるように努めるべきである。そして万が一盲信による対立が生じたのだとしてもできる限り平和的な手段でその対立を解消しなければならない。

ちなみに私にも絶対に譲れないと感じられる価値観は存在するが、それに対して疑いを禁じるようなことはしていない。もし私が何らかの考えに対して疑いを封じるのであれば、自身の幸福や人類の幸福のためにより良い考えを見落とす可能性が生じることになるだろう。絶対に正しいといえる価値観があれば疑うことを禁じてよかったのかもしれないが、私はあらゆる考えについて予想外がないことを証明できていないのでそのようなものは持ち合わせていない。

 

 

格差


・競争に勝たなければ生きていけない社会では誰も安心して休むことができない。我々はある程度の努力さえすれば十分に幸福に生きられる社会を実現するべきであり、そのための制度を考えるべきである。

・誰しも競争の敗者になりうる。競争に敗れた場合でも十分に幸福であれる社会を実現しなくてはならない。

・貧困や労働環境の悪さにより心の余裕を失うものが増加すれば、政治において冷静さを保てないものも増加する。社会は酷い貧困や労働環境に置かれる者が生じないように努力するべきである。


・特定の人間が極端な力を持つことは民主主義の破壊につながりかねない。個人の持つ力には制限が設けられるべきである。

・贅沢をすること自体は悪ではない。しかし多くの資産を持つ人は他者や環境のことなども十分に考えるべきである。

・格差を解消するにしても資産を持つ人々を敵と考える必要はない。妬みから必要以上にその人たちの利益を奪うようなことをしてはならない。


・世界に存在する格差について、全てを努力のせいにするのも全てを運や環境のせいにするのも間違っている。いずれの立場も極端になれば問題を生じ始める。両方のバランスの取れた考えを持つことが大切である。


・現在大きな富を築いている者について、多くの場合その裏にはその人自身の大きな努力があったことを社会は認めるべきである。しかし一方で多大な富を持つ人は過去の人類の遺産や現在の他の多くの人々の働きがなければその成功がなかったことも理解しておくべきである。

 

○お金以外の資産
私はかつて世界トップクラスの資産を持つことを目指していた。そして金持ちから大きな税を取ろうとする政策は未来の私から資産を奪うものに感じられたので、その時の私はそれに対して強い不満を感じていた。しかし今ではそのような気持ちを持つことはなくなっている。なぜならば税を取られることは自分のお金という資産が社会の安定という資産に置き換わることであり、社会の安定も自身の資産と考えればそれはただ単に自信の資産の構成が少々変わる程度のことに過ぎないといえるからである。人々は自分の資産には自身のお金以外のものも含まれることに気が付くべきである。世界の平和も自身の資産のうちと考えれば自分の富を世界のためにつかうことにも抵抗はなくなるだろう。

道徳的経営&投資

これは理想論にすぎるかもしれないが、企業の経営者は世界の平和や人類の幸福の実現を目的として企業の経営をすれば結果的に多くの利益を上げられるのではないだろうか。私は「人類への貢献という目的を達成するために活動し、その活動資金を得るために利益を上げる。」という理念で経営や投資を行うことで、結果的に優秀な人材が集まり、世界にも受け入れられ、多くの利益を上げられたり他の企業を上回ることができるということは大いにありうると考えている。そのやり方であれば仮に利益を上げることができなくとも得るものはあるだろう。私は何かそのような心構えでない人間を非道徳的な存在として扱ったり、この考え方を持ちたくない人にこの考え方を持つことを強いたりするためにこのようなことを言っているわけではない。ただ、この方針で経営する者が増えると、当然世界はよくなるし、結果的にその人自身にも大きな利益をもたらすかもしれないと考えているから提案しただけである。もしこの私の考え方に賛同できると思った人がいるのなら是非とも試してもらいたいところである。

私は投資に失敗したが、今後も大きな資産を築いた場合には投資を行う可能性はある。しかしそのときは以前の私とは違い、もはや自身の資産を増やすことを最終目標とした投資はしないだろう。先述の人類へ貢献することを目的とし、資金を必要としている企業を支援するために投資を行うのである。もちろん、自分の利益の確保も目指すがそれはついでである。利益を上げなければ次の支援が行えないので、できるだけ多くの利益を上げる努力はする。経営の能力許容不能なレベルで低いために支援をしてもお金を無駄に消費するだけになるであろう企業を支援をすることも当然避ける。しかし利益を上げられなくとも価値ある支援が行えるのなら問題視はしない。


世界トップの富豪ばかりが優れた存在なのだとは思わないことだ。そのような人は確かに高い能力を持っているが、そうでなくとも優秀な人間はいくらでもいる。起業を志す者は、大きな利益を得やすい分野で起業することも、大きな利益は得難い分野で起業することもできる。当然後者の方を選択したほうは、成功したとしても世界で名の知れた富豪になることは難しいだろう。しかしそのような分野にも世界のために必要な分野は多い。そして非常に優秀な人間が、だからこそその分野を選ぶということもありうるはずである。


企業は社会の幸福に加えて従業員の幸福のこともよくよく考えるべきである。日本の企業は従業員を企業の側に合わせようとしすぎである。従業員の行動への縛りは必要最低限に留めるようにした方が良い。

 

 


人類の存続のための戦略

不測の事態に備えるための力を蓄えておいた方がいいというのは、個人のみならず人類全体においても当てはまる。環境問題への対策や資源不足への対策は早いうちから行っておき余力を確保しなくてはならない。また、人類に悪影響を及ぼす事件が生じたときに速やかに対応するための体制を今のうちから構築しておくことも重要だ。人類の柔軟性を高める努力は何も問題が起こっていないうちから行っておくべきである。


人口増加には何らかの対策を打たなくてはならない。人類の数が無尽蔵に増えれば人類が地球上に平和的に存続することは難しくなる。人口が増えれば資源の消費速度も上がる。一部の国際的機関が人口の増加はある時点で減少へと転換するとの考えを公表しているが、予想外の要因により人口がさらに増加し続ける可能性もある。宇宙進出にも過度な期待はできない。宇宙人が地球に来ないのはそもそも科学がいくら発展しても宇宙の遠くの星にいく技術が生まれないからかもしれない。そう考えると人類には太陽系から出られる保証すらない。仮に人類が太陽系の外に出て際限なく宇宙に拡張したのだとして、人類の生存領域の中心部において人口爆発が生じた場合宇宙の新たな領域までその人々を運べなくなる可能性がある。

既に人口が減少し始めている国家(例えば日本)があるが、個人的にはそのメカニズムを分析することで人口増加対策の方法が見えてくる可能性もあるのではないかと考えている。もっともそのメカニズムをそのまま再現するのは辞めたほうがいいだろう。

私はいかなる対策を行っても人類は永続しないと考える。人類はいずれ滅びることになるだろう。盛者必衰である。もし滅びるときが来るのであれば、できる限りダメージの小さい形で滅びるのがいいだろう。

以上の話とは関係ない話だが、AIが発達して誰もが働かずとも無条件に余裕のある生活ができるような世界を実現できたとしても、その場合は子どもの数が増えるので結果的にAIや地球上の資源では養いきれないほどに人口が増加するのではなかろうか。

 

科学の発展と道徳

 

安全保障

以下は素人の脳内における考察結果に過ぎない。

安全保障政策については国民の安全の確保などの真の目標に基づいて考えなくてはならない。目先の感情や一時的な価値観あるいは自身の政治的な立場に惑わされて真の目標のことを忘れてはいけない。

相手が武力行使を行った場合の利益と損失について、利益の方が大きければ相手が武力を行使する可能性が高くなる。逆に損失の方が大きければ武力を行使する可能性は低くなる。相手にことを起こさせたくなければ武力行使を起こした場合の損失が利益を上回るようにすることが大切である。

しかし相手の判断の誤りにより、相手の側にとって損失の方が明らかに大きい場合であっても相手が攻撃をしてくる恐れはある。例えば相手が武力行使を起こした場合の損失の大きさに気が付いていない場合や、相手が冷静さを失っている場合などは判断を誤る可能性が高まる。
相手が攻撃に伴う損失の大きさに気が付いていない場合は、その事実に気づかせるべきである。
相手が冷静さをうしなっている場合は、相手が冷静さを取り戻すように努めなくてはならない。
また、相手に不必要に攻撃的な言動を行うなどして相手の怒りを誘発することは普段から避けるように努める必要がある。

独裁者が自身が冷静ではないかのようにみせかけてこちらの譲歩を迫ってくることもあるかもしれないが、その場合は当然それを見破りその策に乗らないように努めなくてはならない。また、相手がこちらの行いを誇張して表現することもある。その場合は冷静にそれを否定すること。

ときにはこちらに大きな損傷が生じることも覚悟しなくてはならない場合がある。目先の損失を回避することばかりに気を取られ長期的により大きな損失が生じるようなことは避けなくてはならない。

我々は相手の動きについてできる限りの情報収集と洞察を行うべきであるが、どれほど努力したとしても相手の出方を完全に読むことはできない。自身の予測を過信せずに、予測を外した場合の対策も十分に行っておかなくてはならない。万が一はある。


万が一の場合に備えてあらかじめよく準備をしておくこと。有事の際には、混乱を最小限に抑えて速やかにその問題に対処しなくてはならない。また、損失を回避しきれないのであれば損失を最小限に抑えるように努めなくてはならない。国民自身も有事の際への対策をよく考え、事前に備えを用意しておくべきである。


特定の策があるから他は用意しなくていいなどと思い込んではならない。例えば武力行使なしに交渉で平和を保つという心がけは素晴らしいものではあるが、それを絶対視して交渉に失敗した時の対策を行わないというのは危険である。


重要資源を一か国に依存してはならない。その傾向が強いほど、その国に操作される可能性が高まる。

軍事力の拡大を最大限に行うことが最大の安全保障効果をもたらすとは限らない。軍事力の拡大を行おうとすれば相手も同じようにそれを拡大する。そして、結局相互に大きな資金を用いる一方で軍事的には両者が拮抗した状態が変わらないなどということになる可能性がある。さらには軍拡競争は双方の間にある緊張感も増す効果ももたらすことになるかもしれない。そうなれば安全保障効果が大して得られないうえに、双方の資金が奪われたことにより双方の長期的衰退を招くことになる。このような状態を防ぎたければ、相互に自制と相手への牽制を行うべきである。

以上の話は双方の側の国力が拮抗している場合の話である。もし双方の側の国力に大きな差がある場合、力のある側が軍拡競争で長期的に相手を押し切ることができる可能性もある。それを避けたければ国際的な協力関係を築いて総合的に押し切られないだけの力を得られるようにした方がよい。そのためにも私は民主国家には自国のみに捉われずに多くの国の間でよく連携を取ってほしいと考えている。ただし、その連携は相手を打倒するためのものであってはならない。現在独裁的な国家についてもいずれはこちら側についてもわらなくてはならない存在であるが、それを敵とみなしてしまえば相手とこちらの間にある対立は深まる一方である。


相手国へ経済制裁などを課す場合、貧困層に致命的な経済的打撃が生じる恐れがある。その場合はやはり資金力のあるものが率先して支援するように努めたほうが良い。

相手がどのような策でも押しつぶせるほどの力を身に着けてしまえば、いくら策を練ったのだとしてもそれに対抗できなくなる。そうならないように事前に対策を打っておく必要がある。手遅れになってからでは遅い。

敵意を向けないことも安全保障政策の内である。敵意を向けずとも警戒すべきものに警戒することはできる。深められる友好は深めておくべきである。

 


世界の民主化と合意の積み重ねによる世界平和(執筆中)

●民主的平和論

・民主国家同士は戦争しないという話がある(世界の民主化による平和を目指す考えを民主的平和論と言われている)

 

経験的に把握されているが、それ以外に確実な証拠があるというわけでもないということは認めざるを得ない。やはり民主主義にするだけではなく、平和的な思想を良く広めることが大切だろう。どのみち一個人だけが強力な力を持つような独裁国家は、トップ一人が暴走しただけで何をしでかすかわからなくなるので危険か。では組織から成る独裁はどうだろうか。

・実際に日本人の私が軍事的脅威を感じるのは北朝鮮や中国などの独裁国家である。民主国家である韓国と日本の間には現在政治的な対立が多いが、軍事的な対立が起こる可能性はほぼ0だろう
・民主国家が平和的だといいたいわけではない。世界各地を植民地支配した国には民主国家が多く含まれる
・私は世界の平和のためには、世界のすべての国の民主化が必要であると考える。

・民主主義国家においても、人道的な考えや戦争を防ぐための意識を国民の間で共有させる必要がある。

 

●合意の積み重ね
・民主化に加えて、世界の平和の実現及び維持のために必要な合意や国家間の条約の締結を増やすことで平和を実現していく

それらの合意により次のことが目指されるべきである。
・核拡散防止
・その他軍事衝突の防止
・格差、貧困への対策(特定の国だけが世界の利益を搾取してはならない)
・パンデミック下におけるさらなる協力
・環境問題への対処
・国連などの世界的組織の改革
・国際紛争が非暴力で解決できるようにするためにさらなるルールの整備

・その他あらゆる世界的問題の解決


大国は自制することを覚えなくてはならない。大国は強い力を持つがゆえに国際社会を無視して行動することを行いやすい。大国が横暴を働くのであれば、それ以外の国々がよく連携をしてそれを抑止しなくてはならない。


○世界連邦
中には世界連邦というものを提唱する人もいる。アルバート・アインシュタイン、バートランド・ラッセル、湯川秀樹などが生前に世界連邦を推奨しいる。だが私は現時点ではこれに賛同できないし、少なくとも私が生きている間にこれが実現することはないだろうと思っている。無理に推し進めれば逆に世界は分断され、多くの悲劇を生むことになるだろう先述の方法で十分ならそれを無理に実現する必要はない。仮にこれを実現するのであれば、それは世界の大多数の人間が心からそれを支持するようになってからにするべきである。そしてもしこれを実現する未来が訪れるのであれば、その時はとにかく独裁に気をつけなくてはならない。一部の人間が自分の思うがままに世界を動かせるような状態にしてはならない。

個人的な予想だが、それが成立して少なくとも数百年の間は、現在存在するどの国家よりも各地域の自治権が大きな組織であることになるだろう。なぜならば今あるどの国よりも多くの人々が含まれるからである

 

民主化の方法

民主化のために活動する者は、それを成功させるために幅広い情報収集とあらゆる手段の検討を行う必要がある。情報収集においては過去の民主化成功例や失敗例から学ぶことが大切である。例えば歴史を見れば民主化した国がしばらくして独裁に戻る例が数多くみられるが、それは多くの人々に十分に民主主義の意識を根付かせることで対処できるかもしれない。民主主義の意識が中途半端であれば再び独裁政権を作ろうとする者が現れた場合にそれを支持する可能性があるが、大多数の国民が民主主義の重要性を理解していればそれを防ぐことができるだろう。また、民主化の手段としては非暴力不服従という手段が考えられる。相手や相手の側に立つ者に良心があるのであれば、平和的手段で民主化を訴える者を暴力で排除することは難しくなるだろう。逆にこちらが暴力的手段を使う場合は、理由をつけてその活動を弾圧することが容易になるだろう。

 

独裁者はもし本当に強い民主化の流れが生じたのであれば、自らがどのように努力してもその政権を守ることはできないことを理解しておいた方が良い。世界には個人の力では変えられない流れというものがあるのである。私は独裁者に対してはその独裁を維持することに固執せずに、権力の座を民主化を推し進める者に譲るか、自ら民主化を推し進めることを推奨する(どちらがいいのかは場合による)。

民主化は民衆の側からだけではなく、政府の側からも行うことができる。そして政府の側からも民主化を推し進める場合は比較的犠牲は少なく済むだろう。私は現在独裁的な政治を行っている人々が自ら民主化を推奨してくれることに期待している。もっとも政権を握っている人々の気が変わる可能性もあるので、国民は民主化の圧力をその政権に継続的にかけ続ける必要がある。