世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第十章:世界平和を実現する方法(未完成)

 


道徳システム


●善悪の形成

世界に絶対に正しいといえる価値観が一つも存在しないのだとすれば、人を殺してはいけないという価値観も絶対に正しいとは言えないことになる。しかしそれが原因で我々の社会で人を自由に殺すことが認められるようになることはない。

もし仮に人殺しが禁止されていない状態に人々が置かれたとしよう。この場合、人殺しが禁じられている社会と比較すると、人々は他者に殺される可能性が高い状態にあるといえる。しかしこのときの人々も当然死を回避したいと思う気持ちを持っているので、人殺しの認められない社会になった方が都合がいいと考えるはずである。その結果、人々はお互いに人殺しは悪いことであるという価値観を作り出してそれを支持し始めると同時に、人を殺してはならないという法を作りその法を破ったものには罰を与えるようになるのである。この際にその価値観が世界の真理として正しいかどうかなど関係はない。仮に人殺しが悪くないという価値観が絶対的なものでなくとも、人々はお互いが死なないようにするために人殺しが悪いという価値観とそれを禁じる法を支持するようになるのである。

このようにして、人々は絶対に正しいといえる価値観がない状況においても必然的に善悪の価値観を作り出してそれを支持しはじめるのである。従って我々は絶対的価値観がない状態においても道徳が全くない世界になることを危惧する必要はない。

・善悪に基づいた法や制度の形成
人々はお互いに同じ種族であるので、多くの共通の性質を持っている。そして共通の性質を持っているがゆえに、多くの共通の善悪を持つようになるのである(※ただし、時代や人々を取り囲む状況の変化によって人々が共通して持つ価値観には変遷が生じる。だからこそ変えてはならない道徳的価値観は変えないための努力をする必要がある。)。そして人々が同じ善悪を持つようにあった後には、必要に応じてその価値観に基づいた理想を実現するための制度が作られることになる。例えば、多くの人が共通として善と見なす行いは社会的に推奨され、場合によってはそれは社会保障などの制度により実現が目指されるようになる。また、多くの人々が共通して悪と見なす行いは社会的に批判され、その悪の程度がある閾値(しきいち)を超えるとそれを禁止する法が作られるようになる。


●道徳の生成に影響を及ぼす要因
道徳の形成にかかわる人の共通の性質は無数にあると考えられるが、私はそのうち主要なものとして「利益獲得性向」「損失回避性向」「共感性」「公平性」があると思っている。


・「利益獲得性向」及び「損失回避性向」
文字通り利益を求める性質と損失を回避する性質である。先ほどの人殺しを否定する道徳は、お互いの損失を回避する性質により生み出されたものである。

 

・共感性
人間には個人差があるもののおおむね相手に共感する性質が備わっている。人はその性質があるがゆえに他者が傷ついたときにも自身が傷ついたかのように感じることになるのである。そしてその結果、人々は自身の直接の利益とならずとも他者が苦しまないようにするための行動を起こし始めることとなる。社会で他者を傷つけることを悪とする価値観や他者を攻撃することを禁じる法律が支持されている理由は人のそのような性質にあることも多い。また、人々の共感の対象は同じ人間だけではなく動物にまで及ぶ。動物(特に人により近い形や生態を持つもの)を楽しむために痛めつけたり殺したりすることは現在多くの国で禁止されているが、それは動物への共感が働いているからである。おそらく人により近い生物であるほど人にとって共感の対象となる可能性は高くなる。


・公平性
力のある者は力のない者に対して不公平な利益の分配を押し付けることができる。そしてそのように自身の都合の良い分配を押し付けられる側の人間が、公平性を積極的に実現したいと思うことはすくない。しかしそれではなぜ今日においては多くの人が公平性の考え方を支持するのかというと、もし不公平を肯定する理屈を用いて誰かから利益を奪う者がいるのであれば、その人は自身が力のない側になったときに利益を奪われることを否定するのが難しくなるからである。

かつてのように君主制の時代であれば、為政者が自身が力のない側になることがまれであり公平性を支持する理由がないために政治においてその価値観は支持されがたい状態にあったといえる。しかし、現在の民主主義国家においては政治的に誰もが一方的に力のある側に立つことが困難であるために、人によって程度の差はあるものの多くの人がある程度の公平性を支持するようになっている。

補足1:もちろん人が公平性を求める理由は、自分の利益のためだけではない。共感性から相手に理不尽な要求を突きつけることを控えようとして公平性を求めることもある。また、相手からの積極的な協力を得るために公平性を求めることも多い。

補足2:公平性を極端に追及しすぎると、逆に多くの人にとって窮屈な世界になる恐れもあるかもしれない。もしそうであるのなら、公平性の追求は適度に抑えるのがいいだろう。しかしそれを理由として何者かが度が過ぎる不利益を被るような状態は、社会保障制度の充実などによって避けなくてはならない。

 


●我々が成すべきこと
以上の説明は道徳がどのように発生するのかの説明であり、我々がどうするべきかの説明ではない。この項では我々のするべきことについての個人的見解を解説する。

○より良い考え方を見つけること、より良い制度を作ること
人々は、現行の制度よりも優れた制度があるのだとしても、その存在に気づいていないうちはそれを実現することができない。また、仮に自分が今より優れた制度を知っているのだとしても、他の人々にその制度の実現が自身の損失につながるという誤解があればそれを制度化するのは難しい。社会をより良いものにしたいのであれば、まずは優れた制度を見つけ出し、次にその制度がいいものであるということを多くの人々に伝えるようにしなくてはならない。

同様に、人々は今社会に普及している考え方よりも良い考え方があるのだとしてもそれを知らないうちはそれを支持することができない。もし社会をよくしたいのであれば人々にとってより良い考え方を見つけ出しそれをできるだけ多くの人に認知させることも大切である。本当に人々のためになる考え方についてはそれが世界の真理として正しいものではないのだとしても多くの人々の支持を得ることが可能である。

 


○主観的判断


・感情による判断について
私は自身の感情を理由として何らかの政治的主張を行うことを認める。そもそも私が政治において自身のために行う主張は究極的には全て自分の「苦しみたくない」あるいは「幸せになりたい」という気持ちが理由であり、他者のために行う主張もまた自分の「他者に苦しんでほしくない」あるいは「他者に幸せになってほしい」という気持ちが理由である。もし感情による判断を全面的に悪いものとすれば、わざわざそれらの判断を理性による判断であるかのように取り繕うために労力を割くことになるが、私はそれに意味を見出さない。

ただし感情による判断を認めるという際に問題になるのは自身の感情を根拠にすればなんでも正当化されると思う人間がでることである。もちろん私はそのような考えは受け入れないし私以外の人間もそうだろう。人々が自身の感情を理由に主張することを社会が認めるということは、「感情を理由にすればなんでも言っていいということ」や「自身の気持ちに基づいた主張が全て相手に受け入れられるようになること」を意味するわけではない。もし自分が何者かを排除することを自分の感情を理由に正当化したとして、その場合は他者が自分を感情的に排除することも正当化されることは理解しておくべきである。お互いになんでも言えるなどと勘違いせずに、してはならない発言をしないように努めなくてはならない。また、自身が相手の感情に基づいた主張を受け入れないことがあるのと同じように相手も自身の感情に基づいた主張を受け入れないこともある。自身が感情による主張を行えば何でも相手が受け入れてくれると誤解するのも間違っている。

・感情と理性

感情の肯定が行き過ぎて理性の否定となってはならない。

 


・他者の内心の実態は総合的に判断すること
もし多くの人が「赤い色を見ると日常生活に支障をきたすほど不快な反応を生じさせるという先天的性質」を持ち、なおかつ赤という色を禁じることのデメリットが許容可能な場合は社会に公の場で赤い色を出すことを控えさせようとするルールが作られることになるだろう。しかしある人間の集団が自身の都合を押し通すことだけを考えて、実際にはちょっとしか不快にならないものについてそれが生まれつきの性質により生活に支障をきたすほど不快なものであると偽って主張し始めたときはどうだろう。その人たちの表面の言動だけ見ればそれは規制するべきものとなるかもしれないが、その人たちの内面まで見ればそれは規制するべきではないだろう。しかし我々にそのような嘘を確実に見破ることはできるのだろうか?私はその問いについては絶対に誤りのないように見分けることはできないと答えるほかないのではないかと思っている。我々はある人が自身の主張を押し通すために内心を誇張したり偽ったりして表現したのだとしてもそれを確実に見抜くことはできないのである。


となれば我々は完全が無理であることを承知の上でできる限り正しい判断を行うように努力するしかない。そしてそのためには、その人の発言のみを信じるのではなく他の情報も集めて総合的に判断することが大切である(例えばこれは学術的な話ではなく個人的な話ではあるが、ある発言の内容が事実であるかどうかを判定する際にはその発言を行う者が信用できるかどうかや、どの程度の人数の人間が同じことを言っているのかなどを参考にできるかもしれない。)。その際に参考にする情報はできるだけ恣意的な操作が入りにくいものだとなお良いだろう。ただし、何者かの内心がある特定の状態にあることを信頼性の高い情報によって証明することができなかった場合においても、それはその人の内心がその状態にないことの証明ではないことは理解しておかなくてはならない。

 

 

・感情に基づいた対立の調整
何らかの感情に基づいた対立がある場合は、お互いに相手に対して「妥協を促すこと」や「誤解を解くこと」を行うと同時に、自分自身も「妥協することの検討」や「誤解を改めること」を行うようにするといいだろう(※このとき、妥協するかしないかは自分の利益だけを考えて判断するのではなく他人の利益のことも考えて判断するべきである。)。

例えばあるものについて規制してほしくないと感じる人と規制したいと感じる人が対立しているとしよう。そしてこのときさらに規制したいと思う側の人が、その人にとって本当に規制しなくてはならないものは世界のすべての文字の内「A」だけであるにも関わらず、その人の洞察不足から「アルファベット全て」が絶対に規制しなくてはならないものであると思い込んでいるとする。その場合は規制に反対の側は規制をしようとする側に対して規制する必要があるのは「A」だけであることを気づかせることでアルファベット全体の規制を防止できるかもしれない。あるいは本当は「A」は危険ではないのにその人は「A」を危険だと誤解しているためにそれを規制しようとしているのかもしれない。その場合は「A」が危険でないことを示してその規制を控えさせることも可能だろう。
逆に規制に反対する側は相手が同じように自身の妥協を迫ってきた場合には自身が妥協することを検討し、自身の誤解を指摘されたのであればそれを素直に改めるようにしなくてはならない。社会をより平和的に運用するためには人々がお互いに自制することが大切である。無理やり自分の都合だけを押し通すことは認められない。(※ただし、これは5対5にしろというわけではない。)

 

 

○法規制について

人々は安易に法で他者の行動を縛ろうとするのを控えるべきである。そのような態度の受容は自分にとっては重要だが他者にとってはどうでもいいような何かが規制されることにつながる恐れがある。ある行動に対してそれに少々の不快さやリスクがある程度では規制を行ってはならない。人類の存続にとって大きなリスクのある行為については厳しめに規制しなくてはならないこともあるかもしれないが、基本的には法による制限はできるだけ少ない方がいい。また、自身が規制しようとしているものが他者にとって自身の想定以上に大切なものである可能性についても忘れないようにした方がいい。

ある創作物上における表現(暴力的表現や性的表現など)が道徳的に誤った行動を誘発する恐れがあるという理由で規制されそうになる現象はよく見られる。しかし仮にある表現が悪影響をもたらすことが事実であるのだとしても、真に問題があるのはそれに影響を受けて実際に誤った行為を行ってしまう人間であり、その表現を誤った行為をせずに楽しむ人間ではない。従ってある表現による悪影響に対抗するためには、後者の権利にまで制限を欠けることになる「表現の規制」以外の手段を用いるように努めなくてはならない(※このあたりは要補足)。また、実際には何の悪影響もないにもかかわらず無知による恐怖感からある表現を規制しようとする者がいるのであれば、その人はその態度を改めるべきである。趣味というのは如何に他者にとって理解しがたい者であっても、当人にとっては人生において非常に重要な部分であることが多い。そのようなものへの規制を自身にとってどうでもいいからということ見過ごしたり肯定したりするべきではない。

以上と同じ理由から私は酒やタバコであっても安易な規制は控えるべきだと考える(規制が絶対にダメだと言っているわけではない)。例えば酒を飲むと暴力的になる人間は確かに存在するが、その場合に優先的に行うべきことは酒を禁止することではなく酒で暴れる人間にその態度を改めさせることである。タバコについては当人のみならず他者の健康にまで大きな悪影響を与えるのが現状であるので酒よりも厳しく見なくてはならないかもしれない。しかし社会においていくらか喫煙が可能な場所を残せるのならその方が好ましいだろう。

ちなみに私は飲酒や喫煙は行ったことがない(行ったとしても小さなころにちょっと舐めた程度だろう)し今後もするつもりはない。酒を飲むと脳にダメージが入るという話を聞いたことがあるが、それが事実であれば私は世界の真理を探究するためにも脳を破壊してはならないので酒を飲むべきではないのである。そして、そのように酒やタバコを回避するような傾向は私だけではない。少なくとも日本では若者がそういったものから距離を置く傾向は強まっている。しかしもし今後さらにそれらを楽しむものの割合が減り続けたのだとしても私はむやみに規制をかけようとは思わないし、無用な規制についてはそれが自分に関係のない者であったのだとしても積極的に反対するつもりである。そして健康を推進するにしてもできるだけ法規制以外の手段を用いるように努めるだろう。我々は法規制を支持するほうが楽であったのだとしても安易にその支持に回らずできるだけそれを回避する方法を考えるべきである。

 

・その他

それぞれの人がどう行動するかについて、法ではなくそれぞれの人の判断に任せたほうがいいこともあるだろう。特に人々の意見が大きく割れるうちから法規制を推し進めることにについては、私はそれを絶対悪とはみなさないものの慎重になったほうがいいと考える。民主主義を円滑に推し進めるには、人々にとってより重大な問題であればあるほどより多くの者の同意を取り付けてから政策を決定するべきである。

 

・中絶に関して

せっかくなので最近アメリカなどで大きな物議を生み出している中絶に関する問題についてもこの項目で取り扱うものとする。ただし以下の考えは絶対的に正しい答えとして紹介するのではなくあくまで自分がどのような理由でどのような立場に立っているのかを示すためのものにすぎないことは最初に断っておく。

結論から言えば私は中絶について妊娠中の全ての期間に対して法的な制限を欠けることには否定的である。それをするかしないかについては法ではなく各個人の判断に任せてはどうだろうか。私はまず性暴力による妊娠について中絶を禁じることには反対である。なぜならばそれを禁じるはその当事者に多大なる苦痛を背負わせることを強いることになり、私はそれを見過ごすことができないからである。むろん中絶の際は胎児の犠牲を生むわけであるし、その犠牲を妊婦の精神的苦痛より重たくとらえる人がいることは理解している。そしてその考えから自身が性暴力によって妊娠した場合にも中絶を行わない選択をする者がいるのであれば私はその人には十分な敬意をつもりである。しかし

また、自らが望んだ性交による妊娠の場合については、その際に中絶することにはいくらかの道徳的問題があると私は考えているが、しかしそれでも私はそれについて法規制をすることには否定的である(仮に性暴力による妊娠とそうでない妊娠の区別が100%可能であったとしてもである)。なぜならば、それに規制をかけることは人々の幸福に多くの制限を欠けることになると考えているからである。現時点で性交による妊娠の確立を0にすることは避妊具や薬を使用することによってはできないのであり、それを実現するには生殖機能を手術により喪失させるか性交自体を一切行わないようにするしかない。しかし前者は人々にとって精神的負担が大きい行為であり、後者もまた

愛する者との性行為を禁じられることは

言い方を悪くすれば欲のために胎児を殺すことを容認するといえるのかもしれない。しかし欲というものは

 


○他者を思いやる気持ちを持つこと

我々が社会の治安の維持のためにできることは、法と警察による人々への強制力ある制限ばかりではない。人々は自ら他者を大切に扱うことによって自身以外の者が他者を大切にすることを促すことも可能である。それはどんなに慎重に作られたとしても存在するであろう社会の制度の不備への対策としても必要なことである。また、社会の道徳の生成の過程において、もし人々が自身の利益ばかりを考え他者のことを考えないのであれば、社会の多くの者にとって利益となる場合に少数の人々を切り捨てることが支持される可能性が高くなる。私はそのような状況になるのを防ぐためにも人々には他者を大切にする気持ちを持ってもらいたいと考えている。

幸いにも私は人間は他者を憎むよりも他者を大切にした方が幸福になれるということを知っているので、人々が他者を大切にするようになるということに疑いを持っていない。この件については後の悟りに関する章でより詳しく説明する。誰かを敵にしてはならない。全ての存在は例外なく大切に扱うべき存在である。

 

 

○利己的な態度の受容

私は自身を含め人々がある程度利己的な態度を持つことを受容する。ここでいう利己的な態度とは、他者に損失をもたらしうる行動を自身の利益のために肯定する態度のことである。例えば子どもが幸福になる保証はなく苦しみに満ちた人生を送る可能性があるのに、子どもを子ども自身の同意を得ずに一方的に作ることは利己的な態度といえる。あるいは人は生きているうちはどうしてもいくらか生き物を殺してしまう(おそらく完全菜食主義を選択したのだとしても耕作地を作る際にいくらか生き物を殺すことは免れない)のだが、それにも関わらず自然にある寿命に満足せず医療に頼って長く生き続けようとすることは利己的態度といえるのかもしれない(どうせ人は死の苦しみを味わうのだが、他の生き物のことを考えるのであればそのタイミングは早い方がいい)。

しかし私は以上の利己的態度を消しきらないことを悪とはしない。これは単に私の心の弱さなどからくる結論である。私は完全に自身の利己的態度を抹消した人間になる覚悟を持つことはできない。そしておそらく私以外のほとんどの人もそれは同様であるだろう。ゆえに私は自身に対しても他者に対しても利己的態度を完全に根絶することは求めない。ただし、これは人々が自身の利己的態度を野放しにすることの肯定ではない。利己的態度を持つことをいくらか受容するとはいえ、その程度については節度あるものにするべきであることを忘れてはならない。0か100かの思考に陥るべきではない。利己的な態度の完全な廃絶も利己的な態度の度が過ぎる増長も私は肯定しない。

私は自身やそれ以外の者に対して、「自身がどの程度利己的な態度を持つのかについて適切な頻度で考え直すこと」及び「その際にはそれぞれができるだけ肯定する利己的態度の程度を小さくするようにすること」を求めるつもりである。また、人によってどの程度の禁欲でどの程度の苦しみが生じるのかには差があるので、私は他者に対して自身と同程度の水準まで利己的態度を減らすことを必ずしも求めはしない。しかし私は度の過ぎた利己的態度を持つことについてはやめることを推奨し、場合によっては法律の制定によって禁じることも支持するつもりである。これは理不尽に感じる人もいるかもしれないが、身勝手に過ぎる者は自身の利己的態度は他者の利己的態度によって封じられ得ることを忘れるべきではない。そして、利己的態度を受容する人は、自身がある行為を肯定して行うのであれば、相手に同じことをされそうになったときにそれを辞めるように言っても納得してもらい難くなることも理解しておいたほうがいいだろう。例えばある人が他者を殴りたいがために自身が他者を殴ることを肯定したとき、相手が自身を殴りたくなった時にそれをやめるように言っても説得力は大幅に失われているのである。私はそのような事情もあって基本的に相手にされると本当に困るような行為を自身が肯定して行うことはしない。ある行為について自分は行ってよくて自分以外の者は行ってはならないという理屈は社会においては支持されないのが通常である。

 

※ちなみに肉食に関する私自身の立場は、他者に強制することには慎重あるいは否定的であるものの、自身や他者に対してその肉食量をできるだけ減らすことを推奨するものである。そしてその目的は動物に与える苦痛と環境への負荷の低減であうる。この件については今は自身の勉強不足もあり詳細な説明は行えないが、後にそれについての考察と情報収集を行ったうえで別の記事で詳しく紹介する。

 

○その他道徳に関する個人的な見解

この項目は先述の良い考えを広めるということの実践である。以下は私が広める価値があると見なした考えである。

・少数派を弾圧することを肯定する社会においては、何ものも少数派に陥ることを恐怖しなければならなくなるだろう。自身のためにも少数派を弾圧することは避けるべきである。

弾圧される少数派がいる場合、その人数の少なさから当事者のみでその弾圧に抵抗することは難しい。従って、その弾圧を止めるためには当事者でない人々も積極的に動かなくてはならない。それは自身が少数派に回った場合に他者に守られることにつながるだろう。


・相手の意志を無視して何者かを迫害する者は、自身の意思を無視してその迫害が止められることを覚悟しなくてはならない。

・先述した通り人間はそれぞれ共通した性質を持っていることから、おのずと多くの時代地域で同じような道徳を導き出すことができると考えられる。従って、私は異なる時代あるいは異なる地域の人間と話すときも、基本的な道徳については既に共有されているものと認識して対話を行う。そして、もしお互いの持つ道徳に重大な不一致が存在する場合は、一緒に道徳について考えることでお互いの道徳を向上させることを試みるつもりである。

・人々全体の幸福の総量をより多くするという観点から物事を考えることも必要かもしれないが、その考えが行き過ぎて特定の層に過度な不幸が集中することはできる限り避けるべきである。

 

・人々が人々の幸福の実現を目指す際には全体的な効率を考えることも重視するべきだが、私は時に全体的な効率をいくらか落としてでも目の前の人間を助けることも肯定して良いと考える。それは時に人々全体の幸福を逆に高めることにつながるだろう。(ただし、政治家等の社会に大きな影響を与えうる立場についた際にはそのような態度を取ることにはより慎重にならなければならない。全体の効率を考えない場合には目の前にある苦しみが他の場所でより多く発生することを忘れてはならない)。

 

○悟りと倫理

悟りに関する説明は基本的には十二章で行うつもりであるが、悟りを踏まえたうえでの道徳あるいは倫理についての考察は文章全体の構成をわかりやすくするために例外的にこの章において取り扱うことにする。

多くの人は人を殺してはならないという価値観を正しいものと捉えている。しかしその考えへの過信が行き過ぎた者はときに正当防衛のためにやむを得ず行われる殺人をも否定し始めることになるのである。悟りを開いたものはこのような損失をより少なくすることができる。

言葉に囚われる人は自身の心の安定を実現するためにある特定の考えを不動の真実として扱わずにはいられない性質を持つ。そしてそのような人はその性質があるがゆえに、ある考えを何らかの手段(例えば学術的な手段)によって事実と認定した後には、それが不都合を生じさせることに心のどこかで感じていながらその考えの支持あるいは正当化に固執するのである。もちろんその不都合がその人に許容不可能なほど大きくなればその人はその考えの支持を取り下げ新たな考えを探し始めるだろう。しかし言葉に囚われる性質が強い人ほどその人は自身の考えを改めるまでに多くの不都合を無視することになるのである。そしてそのようにして多くの不都合が無視された結果その人や世界には回避できたはずの損失や対立も多く生じることになるのである。一方で悟った人は不確定な世界においても心の安定を確立できるので、そのために何かを不動の真実と信じ込む必要はない。そのような人はそれゆえに特定の立場への固執により無用な損失を生むことが少なく、より容易く自身や他者のためになる考えを見抜くことができるのである。

ただし、以上の事実は悟った人はいかなる基準をも支持しないということを意味しない。なぜならば何らかの明確な基準を支持するという行為は公平性の確保の観点などから有用なことも多いからである。先述の特定の立場に固執しないという態度は基準を持たないということではなく、基準を持ったうえでその基準を支持することが事前に想定していなかったような不都合を生じさせる場合には無用な抵抗なくその考えを改めることができるということである。また、そのようにある基準に固執しないという態度は、ある考えを自身の利益となり相手の損失となるときには支持し自身の損失となり相手の利益となるときには反対するという立場を取ることを意味しない。そのような所謂ダブルスタンダードとでもいわれるような立場を意図的に取ることは当然道徳的に問題があるので避けるべきである。

(※実際には悟った人も何らかの誤ったあるいは非効率な考えの正当化を無理に行おうとすることはありうるが、その際にはそれを事実だと思い込むようなことはせず、その場の仮の考えに過ぎないことを理解の上で自身や他者の利害のために一時的にそれに固執するのである)

(※言葉への囚われから脱した人間は、不確定な世界においても精神的な安定を確立することができる。それゆえにその人は無理にある理屈に対してこれが真実であると断定する必要はない。)

 

 

・絶対的真理がないのであれば世界の価値観は不安定になるのだろうか

そのようなことはないだろう。特に人やそれを取り囲む環境の今後も長く変わらないであろう性質を元に導き出された倫理観はそう簡単には変わらないのである。例えば殺人や拷問を悪とする価値観は、いくらかの例外が存在し続けるだろうが基本的には悪とされ続けることになるだろう。

・概念上の闘争

学問において人には自由意志がないことが発覚しそれを理由に犯罪者を裁くべきではないという考え方を導き出されたとして、それが実際の世の中で実行されることはない。社会実態を無視した概念闘争上の結論はいずれは是正されることとなるだろう。

如何に道徳的に潔癖であり論理的な誤りもない完全な道徳理論を作り出すことに成功したのだとしても、それが人々に多大な損失をもたらすのであれば人々はそれを支持せず、その理論が実質的効果を持つことはない。

 

・悟っていれば正しいとは限らない&悟っていなくても良い判断はできる
悟りを開けば必ず正しい判断ができるということはない。悟った人であっても情報が不足していれば誤った判断をする可能性は高くなる。悟って得られる効果は多くの知識や情報を得た場合と同様により良い判断が行いやすくなる程度のものにすぎない。逆に悟っていなければ良い判断ができないということもない。悟りを開いていない人でも十分に情報を集め考察を行えば優れた考え方を見つけることはできる。

 

・悟りへの誤解
悟りというものはよく誤解される。例えばある人は悟りを誤解して囚われないことに囚われることにより逆に精神的に不自由な人間になる恐れがある。しかし本当に悟った人はそのように囚われないことに囚われることもない。このあたりのことを正しく理解するには実際に悟りを体験することが好ましい。それを体験する方法については後の章で公開する。だが、もしかすると簡単にはそれを理解できない人も多いかもしれない。もしそうであるのなら、そのような人はそれを理解するまでの間はとにかく自身が正しいと思う考えが本当に自身や他者を幸福にするためになるかどうかを良く見直すようにすると良いだろう。そしてもし自分の考えに問題があることに気が付いたのであればそれを改めるべきである。

 

 

 

道徳の攻撃性あるいは排他性

人々の中には自分が常に道義的な高みにいるかのように見せかけようとするものがいる。そのような人間は自身の非を指摘されるとそれを認めたくないがあまりに今度は相手の人格を攻撃し始めるのである。道徳に限らず何かについて誰かと話すときには、あくまで自身を相手と対等もしくは相手より低い立場において話したほうが良い。


道徳について仮に自身が相手よりも良いと思われる考えを持っていたのだとしても、相手を道徳的に遅れた人間として馬鹿にしてはならない。そのような場合はその考えを対話によって相手に伝えればいいだけであり、相手をわざわざ見下す必要はない。真に優れた道徳は、道徳を用いて相手を見下すような人ではなく道徳についての対話を地道に継続できるような人に宿る。

 

一見すると道徳に反するかのように見える主張であっても、それを安易に切り捨てるようなことは避けなくてはならない。そのような主張も他者に害を与えることを目的としてなされたとは限らないし、ときには配慮すべき不満や実際に対策が必要である問題の指摘が含まれていることもある。自身の外面を綺麗に見せかけたり困難な利害の調整を避けるために、それらの指摘を無視することは控えるべきである。

 

・その他個人的見解

私の認識によれば不寛容とは何かを攻撃したり排除したりするような態度のことであり、不快な何かが存在すること自体はそのうちに含まれない。この定義は絶対的なものではないかもしれないが、少なくとも以下の文章においては不寛容という語をその解釈で用いるものとする。ちなみに寛容とは何かに対して攻撃したり排除したりしない態度のことである。

寛容の精神を肯定しようとする場合、不寛容に対しても寛容でなくてはならないかのように思われる。しかし不寛容に対しては不寛容と但し書きをすることにより、寛容を肯定しながら矛盾せずに不寛容を拒否することができる。しかし不寛容に対しては不寛容と言い切ってしまうのは過激な思想を生み出すもとになってしまうかもしれない。従って私は不寛容に対しては制限付きの寛容ぐらいの認識でちょうどいいのではないかと考える。ただし、私が支持する「不寛容への制限付きの寛容」という態度は、ある程度までの不寛容に対しては社会的な強制力を生じさせるような対処を行わないというものであり、それらの不寛容に対して否定的なことや批判的なことを言わないというものではない。

 

反差別

 


盲信

盲信とはある考えを疑わずに信じることである。盲信は対話での解決が不可能な致命的対立を生じる恐れがある。我々は自身が持つ盲信の数を極力無に近づけるように努めるべきである。そして万が一盲信による対立が生じたのだとしてもできる限り平和的な手段でその対立を解消しなければならない。

ちなみに私にも絶対に譲れないと感じられる価値観は存在するが、それに対して疑いを禁じるようなことはしていない。もし私が何らかの考えに対して疑いを封じるのであれば、自身の幸福や人類の幸福のためにより良い考えを見落とす可能性が生じることになるだろう。絶対に正しいといえる価値観があれば疑うことを禁じてよかったのかもしれないが、私はあらゆる考えについて予想外がないことを証明できていないのでそのようなものは持ち合わせていない。

 

格差


・競争に勝たなければ生きていけない社会では誰も安心して休むことができない。我々は競争に勝たずともある程度の努力さえすれば十分に幸福に生きられる社会を実現するべきであり、そのための制度を考えるべきである。

・誰しも競争の敗者になりうる。競争に敗れた場合でも十分に幸福であれる社会を実現しなくてはならない。

・貧困や労働環境の悪さにより心の余裕を失うものが増加すれば、政治において冷静さを保てないものも増加する。社会は酷い貧困や労働環境に置かれる者が生じないように努力するべきである。


・特定の人間が極端な力を持つことは民主主義の破壊につながりかねない。個人の持つ力には制限が設けられるべきである。

・贅沢をすること自体は悪ではない。しかし多くの資産を持つ人も自身の力に応じて十分に他者や環境のことなどを考えるべきである。

・世界に存在する格差について、全てを努力のせいにするのも全てを運や環境のせいにするのも間違っている。いずれの立場も極端になれば問題を生じ始める。両方のバランスの取れた考えを持つことが大切である。


・現在大きな富を築いている者について、多くの場合その裏にはその人自身の大きな努力があったことを社会は認めるべきである。しかし一方で多大な富を持つ人は過去の人類の遺産や現在の他の多くの人々の働きがなければその成功がなかったことも理解しておくべきである。

 

○お金以外の資産
私はかつて世界トップクラスの資産を持つことを目指していた。そして金持ちから大きな税を取ろうとする政策は未来の私から資産を奪うものに感じられたので、その時の私はそれに対して強い不満を感じていた。しかし今ではそのような気持ちを持つことはなくなっている。なぜならば税を取られることは自分のお金という資産が社会の安定という資産に置き換わることであり、社会の安定も自身の資産と考えればそれはただ単に自信の資産の構成が少々変わる程度のことに過ぎないといえるからである。人々は自分の資産には自身のお金以外のものも含まれることに気が付くべきである。世界の平和も自身の資産のうちと考えれば自分の富を世界のためにつかうことにも抵抗はなくなるだろう。

道徳的経営&投資

これは理想論にすぎるかもしれないが、企業の経営者は世界の平和や人類の幸福の実現を目的として企業の経営をすれば結果的に多くの利益を上げられるのではないだろうか。私は「人類への貢献という目的を達成するために活動し、その活動資金を得るために利益を上げる。」という理念で経営や投資を行うことで、結果的に優秀な人材が集まり、世界にも受け入れられ、多くの利益を上げられたり他の企業を上回ることができるということは大いにありうると考えている。そのやり方であれば仮に利益を上げることができなくとも得るものはあるだろう。私は何かそのような心構えでない人間を非道徳的な存在として扱ったり、この考え方を持ちたくない人にこの考え方を持つことを強いたりするためにこのようなことを言っているわけではない。ただ、この方針で経営する者が増えると、当然世界はよくなるし、結果的にその人自身にも大きな利益をもたらすかもしれないと考えているから提案しただけである。もしこの私の考え方に賛同できると思った人がいるのなら是非とも試してもらいたいところである。

私は投資に失敗したが、今後も大きな資産を築いた場合には投資を行う可能性はある。しかしそのときは以前の私とは違い、もはや自身の資産を増やすことを最終目標とした投資はしないだろう。先述の人類へ貢献することを目的とし、資金を必要としている企業を支援するために投資を行うのである。もちろん、自分の利益の確保も目指すがそれはついでである。利益を上げなければ次の支援が行えないので、できるだけ多くの利益を上げる努力はする。経営の能力許容不能なレベルで低いために支援をしてもお金を無駄に消費するだけになるであろう企業を支援をすることも当然避ける。しかし利益を上げられなくとも価値ある支援が行えるのなら問題視はしない。


世界トップの富豪ばかりが優れた存在なのだとは思わないことだ。そのような人は確かに高い能力を持っているが、そうでなくとも優秀な人間はいくらでもいる。起業を志す者は、大きな利益を得やすい分野で起業することも、大きな利益は得難い分野で起業することもできる。当然後者の方を選択したほうは、成功したとしても世界で名の知れた富豪になることは難しいだろう。しかしそのような分野にも世界のために必要な分野は多い。そして非常に優秀な人間が、だからこそその分野を選ぶということもありうるはずである。

 

 

 


人類の存続のための戦略

・対応力向上

不測の事態に備えるための力を蓄えておいた方がいいというのは、個人のみならず人類全体においても当てはまる。環境問題への対策や資源不足への対策は早いうちから行っておき余力を確保しなくてはならない。また、人類に悪影響を及ぼす事件が生じたときに速やかに対応するための体制を今のうちから構築しておくことも重要だ。人類の柔軟性を高める努力は何も問題が起こっていないうちから行っておくべきである。

・人口増加

人類はこれ以上の人口増加には何らかの対策を打たなくてはならない。人類の数が無尽蔵に増えれば人類が地球上に平和的に存続することは難しくなる。人口が増えれば資源の消費速度も上がる。一部の国際的機関が人口の増加はある時点で減少へと転換するとの予測を公表しているが、予想外の要因により人口がさらに増加し続ける可能性もあるので念のためその予測が外れた場合のことも考えておいた方がいいだろう。実際には人口増加の問題は杞憂に終わる可能性もあるかもしれないがそうならない可能性もあるのでできる対策は行っておいた方が良い。

私はいま生きている人を殺して人口を減らせなどとは当然思っていない。そのようなことをせずとも人口増加を制御する方法は存在するはずである。例えば既に人口が減少し始めている国家(例えば日本)があるが、私はそのメカニズムを分析することで人口増加対策の方法が見えてくる可能性もあるのではないかと考えている。もっともそのメカニズムをそのまま再現するのは辞めたほうがいいだろう。また、人口の減少速度が急すぎると社会に混乱をもたらす可能性があるので、その速度を許容可能範囲まで低下させる必要もある。

人口爆発対策としての宇宙進出には過度な期待はできない。宇宙人が地球に来ないのはそもそも科学がいくら発展しても宇宙の遠くの星にいく技術が生まれないからかもしれない。そう考えると人類には太陽系から出られる保証すらない。仮に人類が太陽系の外に出て際限なく宇宙に拡張したのだとして、人類の生存領域の中心部において人口爆発が生じた場合宇宙の新たな領域までその人々を運べなくなる可能性がある。

(以上の話とは関係ない話だが、AIが発達して誰もが働かずとも無条件に余裕のある生活ができるような世界を実現できたとしても、その場合は子どもの数が増えるので結果的にAIや地球上の資源では養いきれないほどに人口が増加するのではなかろうか。)

 

・人類の永続について

私はいかなる対策を行っても人類は永続しないと考える。人類はいずれ滅びることになるだろう。盛者必衰である。もし滅びるときが来るのであれば、できる限り苦しみの少ない形で滅びるのがいいだろう。

 

科学の発展と道徳

科学技術は人類に多くの利益をもたらす一方で、人々がその扱い方を間違えた場合などには人類に不利益をもたらすこともある。科学者や技術者は自身が開発しようとしている技術が実際に開発された場合にどのような結果をもたらすのかについてよく考え、リスクが発生するのであればあらかじめそれへの対策を行うように努めなくてはならない。また、科学技術の取り扱い方についての考察は必ずしも科学を十分に理解した者でないと行えないものではない。科学者は新しく開発されるであろう技術が人類に悪い影響をもたらしうるものであるのなら、科学に詳しくない者に対してもその悪影響の内容をわかりやすく伝えるべきである。そうすれば技術そのものを理解することができない人間にもその問題への対策を考えることが可能になるだろう。科学者以外の者が何も分からないうちに科学の暴走によって不利益を被ることは避けなくてはならない。

安全保障

以下は素人の脳内における考察結果に過ぎない。

安全保障政策については国民の安全の確保などの真の目標に基づいて考えなくてはならない。目先の感情や一時的な価値観あるいは自身の政治的な立場に惑わされて真の目標のことを忘れてはいけない。

(※わかりづらいのでここはあとで修正)相手が武力行使を行った場合のそれを行わなかった場合と比較した利益と損失について、利益の方が大きければ相手が武力を行使する可能性が高くなる。逆に損失の方が大きければ武力を行使する可能性は低くなる。相手にことを起こさせたくなければ武力行使を起こした場合の損失が利益を上回るようにすることが大切である。

しかし相手の判断の誤りにより、相手の側にとって損失の方が明らかに大きい場合であっても相手が攻撃をしてくる恐れはある。例えば相手が武力行使を起こした場合の損失の大きさに気が付いていない場合や、相手が冷静さを失っている場合などは判断を誤る可能性が高まる。
相手が攻撃に伴う損失の大きさに気が付いていない場合は、その事実に気づかせるべきである。
相手が冷静さをうしなっている場合は、相手が冷静さを取り戻すように努めなくてはならない。
また、相手に不必要に攻撃的な言動を行うなどして相手の怒りを誘発することは普段から避けるように努める必要がある。

独裁者が自身が冷静ではないかのようにみせかけてこちらの譲歩を迫ってくることもあるかもしれないが、その場合は当然それを見破りその策に乗らないように努めなくてはならない。また、相手がこちらの行いを誇張して表現することもある。その場合は冷静にそれを否定すること。

ときにはこちらに大きな損傷が生じることも覚悟しなくてはならない場合がある。目先の損失を回避することばかりに気を取られ長期的により大きな損失が生じるようなことは避けなくてはならない。

我々は相手の動きについてできる限りの情報収集と洞察を行うべきであるが、どれほど努力したとしても相手の出方を完全に読むことはできない。自身の予測を過信せずに、予測を外した場合の対策も十分に行っておかなくてはならない。万が一はある。


万が一の場合に備えてあらかじめよく準備をしておくこと。有事の際には、混乱を最小限に抑えて速やかにその問題に対処しなくてはならない。また、損失を回避しきれないのであれば損失を最小限に抑えるように努めなくてはならない。国民自身も有事の際への対策をよく考え、事前に備えを用意しておくべきである。


特定の策があるから他は用意しなくていいなどと思い込んではならない。例えば武力行使なしに交渉で平和を保つという心がけは素晴らしいものではあるが、それを絶対視して交渉に失敗した時の対策を行わないというのは危険である。


重要資源を一か国に依存してはならない。その傾向が強いほど、その国に操作される可能性が高まる。

軍事力の拡大を最大限に行うことが最大の安全保障効果をもたらすとは限らない。軍事力の拡大を行おうとすれば相手も同じようにそれを拡大する。そして、結局相互に大きな資金を用いる一方で軍事的には両者が拮抗した状態が変わらないなどということになる可能性がある。さらには軍拡競争は双方の間にある緊張感も増す効果ももたらすことになるかもしれない。そうなれば安全保障効果が大して得られないうえに、双方の資金が奪われたことにより双方の長期的衰退を招くことになる。このような状態を防ぎたければ、相互に自制と相手への牽制を行うべきである。

以上の話は双方の側の国力が拮抗している場合の話である。もし双方の間に大きな国力差がある場合、力のある側が軍拡競争で長期的に相手を押し切ることができる可能性もある。それを避けたければ国際的な協力関係を築いて総合的に押し切られないだけの力を得られるようにした方がよい。そのためにも私は民主国家には自国のみに捉われずに多くの国の間でよく連携を取ってほしいと考えている。ただし、その連携は相手を打倒するためのものであってはならない。現在独裁的な国家についてもいずれはこちら側についてもわらなくてはならない存在であるが、それを敵とみなしてしまえば相手とこちらの間にある対立は深まる一方である。


相手国へ経済制裁などを課す場合、貧困層に致命的な経済的打撃が生じる恐れがある。その場合はやはり資金力のあるものが率先して支援するように努めたほうが良い。

相手がどのような策でも押しつぶせるほどの力を身に着けてしまえば、いくら策を練ったのだとしてもそれに対抗できなくなる。そうならないように事前に対策を打っておく必要がある。手遅れになってからでは遅い。

敵意を向けないことも安全保障政策の内である。敵意を向けずとも警戒すべきものに警戒することはできる。深められる友好は深めておくべきである。

 

漠然とした信頼のみに頼って協力するべきではない。それらは無意味ではないがいざというときに裏切られる可能性があり不確実である。確実な協力を実現するためには、条約等によって協力の義務を明確にし、その条約を破ることと破らないことのどちらの方が得策であるかを考えた場合に破らないことが得策であると相手に思わせられる状態を作り続けなくてはならない。(条約を破った場合に国際社会から非難される状況を作ることも条約を守らせる圧力になりうる)


世界の民主化と合意の積み重ねによる世界平和(執筆中)

●民主的平和論

・民主国家同士は戦争しないという話がある(世界の民主化による平和を目指す考えを民主的平和論と言われている)

 

経験的に把握されているが、それ以外に確実な証拠があるというわけでもないということは認めざるを得ない。やはり民主主義にするだけではなく、平和的な思想を良く広めることが大切だろう。どのみち一個人だけが強力な力を持つような独裁国家は、トップ一人が暴走しただけで何をしでかすかわからなくなるので危険か。では組織から成る独裁はどうだろうか。

・実際に日本人の私が軍事的脅威を感じるのは北朝鮮、中国、ロシアなどの独裁的国家である。民主国家である韓国と日本の間には現在政治的な対立が多いが、現実的な軍事的脅威は存在しないだろう。
・民主国家が平和的だといいたいわけではない。かつて世界各地を植民地支配した国には民主国家として扱われる国が多く含まれる
・私は世界の平和のためには、世界のすべての国の民主化が必要であると考える。

・民主主義国家においても、人道的な考えや戦争を防ぐための意識を国民の間で共有させる必要がある。

 

●合意の積み重ね
民主化に加えて、世界の平和の実現及び維持のために必要な合意や国家間の条約の締結を増やすことで平和を実現していくことができる。それらの合意においては次のことが目指されるべきである。
・核やその他大量破壊兵器の適切な管理
・格差、貧困への対策(特定の国だけが世界の利益を搾取してはならない)
・パンデミック下におけるさらなる協力
・環境問題への対処
・国連などの世界的組織の改革
・国際紛争が非暴力で解決できるようにするためにさらなるルールの整備

・その他あらゆる世界的問題の解決


大国は自制することを覚えなくてはならない。大国は強い力を持つがゆえに国際社会を無視して行動することを行いやすい。もし大国が横暴を働くのであれば、それ以外の国々がよく連携をしてそれを抑止しなくてはならない。


○世界連邦
中には世界連邦というものを提唱する人もいる。アルバート・アインシュタイン、バートランド・ラッセル、湯川秀樹などが生前に世界連邦を推奨しいる。だが私は現時点ではこれに賛同できないし、少なくとも私が生きている間にこれが実現することはないだろうと思っている。無理に推し進めれば逆に世界は分断され、多くの悲劇を生むことになるだろう先述の方法で十分ならそれを無理に実現する必要はない。仮にこれを実現するのであれば、それは世界の大多数の人間が心からそれを支持するようになってからにするべきである。そしてもしこれを実現する未来が訪れるのであれば、その時はやはり独裁に気をつけなくてはならない。一部の人間が自分の思うがままに世界を動かせるような状態にしてはならない。

個人的な予想だが、それが成立して少なくとも数百年の間は、現在存在するどの国家よりも各地域の自治権が大きな組織であることになるだろう。なぜならば今あるどの国よりも多くの人々が含まれるからである

 

民主化の方法

民主化のために活動する者は、それを成功させるために幅広い情報収集とあらゆる手段の検討を行う必要がある。情報収集においては過去の民主化成功例や失敗例から学ぶことが大切である。例えば歴史を見れば民主化した国がしばらくして独裁に戻る例が数多くみられるが、それは多くの人々に十分に民主主義の意識を根付かせることで対処できるかもしれない。民主主義の意識が中途半端であれば再び独裁政権を作ろうとする者が現れた場合にそれを支持する可能性があるが、大多数の国民が民主主義の重要性を理解していればそれを防ぐことができるだろう。また、民主化の手段としては非暴力不服従という手段が考えられる。相手や相手の側に立つ者に良心があるのであれば、平和的手段で民主化を訴える者を暴力で排除することは難しくなるだろう。逆にこちらが暴力的手段を使う場合は、理由をつけてその活動を弾圧することが容易になるだろう。

 

独裁者はもし本当に強い民主化の流れが生じたのであれば、自らがどのように努力してもその政権を守ることはできないことを理解しておいた方が良い。世界には個人の力では変えられない流れというものがあるのである。私は独裁者に対してはその独裁を維持することに固執せずに、権力の座を民主化を推し進める者に譲るか、自ら民主化を推し進めることを推奨する(どちらがいいのかは場合による)。民主主義の側に寝返るのは早ければ早いほど良い。それはどれほど手遅れになった段階でも同じである。

 

民主化は民衆の側からだけではなく、政府の側からも行うことができる。そして政府の側からも民主化を推し進める場合は比較的犠牲は少なく済むだろう。私は現在独裁的な政治を行っている人々が自ら民主化を推奨してくれることに期待している。もっとも政権を握っている人々の気が変わる可能性もあるので、国民は民主化の圧力をその政権に継続的にかけ続ける必要がある。