世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第九章:日本教育改革案

 

 

改革の方針及び方法

教育改革の方向性

知識を大量に記憶させる教育は子どもの知的好奇心を破壊し、さらには子どもが勉強においても考えることが大切であると気づくのを妨げることにつながる。そして、知識を暗記することばかりをしてきた人間は、自身が記憶した知識では対応できない状況に直面した場合やその知識が誤っていた場合に対処することが難しく、さらには知識の応用も教科書に載っているような場面でしか行えなくなるのである。実際に知識を暗記させる教育を受けた日本人は、社会人になってからの勉強時間が少なく、自ら新たな理論を考えたり本に書かれた理論を構築しなおしたりすることをしない傾向にあるように思われる。

また、現在の日本で行われている、学校で指定された勉強に過度な時間を割かせるような教育は、子どもから自主的に活動する時間を奪うことにもなる。そのような教育を受けた人は、自身が決めたことではなく学校に指定されたことをこなせることに満足し、自ら決めた課題をこなそうとする意志が弱くなるだろう。さらには、自主的に活動する機会を奪われ続けてきたので、いざ何か行動を起こそうとしてもその方法を習得するのに多くの時間を書ける必要が出てくることにもなる。そのせいもあってか、私には日本人には自らが主体的に社会を変えようとする意志がかけているかのようにも思われる。

日本の教育は最近改善の兆しはみられるもののまだまだ知識を暗記や受験競争に勝つことを重視した教育となっている。私はその状況を解消するために、「学校教育で覚えさせる知識量を厳選により削減すること」及び「受験競争の大幅な緩和あるいは受験制度の廃止を実現すること」を推奨したい。もしただ自由にさせるだけでは子どもが遊ぶばかりになるというのであれば、子どもの自主的な活動を促すための何らかの圧力をかけることを検討すれば良いだろう。しかしその圧力は子どもが強制されたと感じないようなものであることが望ましい。

私の推奨するこの方針を聞いてゆとり教育を思い出す日本人は多いかもしれない。ゆとり教育とは子どもに生きる力を身に着けさせることを目的として行われた日本のかつての教育政策(2002年から2011年の間に行われていた)であり、それが実施されていた期間は学校で学ぶ知識の量の大幅な削減が行われていた。その教育を受けていた世代はゆとり世代と言われている。日本ではそのゆとり教育に対して失敗であったと批判する人は多い。そこから考えると私のこの方針にも否定的に見る者が多いかもしれない。しかしゆとり教育は本当に間違いだったのだろうか。少なくとも私は教育改革の方向性としては間違っていなかったのではないかと思う。


PISA<ピザ>とは15歳を対象に行われる義務教育で学んだ知識を活用する力を見る国際的なテストである。ゆとり教育への批判の根拠としてPISAの点数の下落が挙げられるが、実のところそれがゆとり教育によるものであるということは難しい。むしろPISAの点数の推移を見れば、特に点数が高かったのはゆとり教育を特に長い期間受けた世代である。確かにゆとり教育が開始されてすぐの2003年に実施されたPISAでは点数は低かったが、そのときPISAを受けた生徒はゆとり教育をほとんど受けてない世代である。逆に2012年で実施されたPISAでは日本の生徒は高い点数を出しているが、その世代はまさにゆとり教育のピークに近い世代である。この事実から考えるとゆとり教育により学力が低下したとは言えないはずである。また、仮にPISAの点数が下がっていたのだとしても、そもそもPISA自体が過信するべきものではないのでその点数のみで教育を評価するのは控えたほうが良い。日本の子どものPISAの点数は国際的に見れば継続的に高い水準にあるが、それにもかかわらず日本の労働生産性は50年連続G7最下位である(ついでに言えば年齢に関係なく幸福度も低い)。生産性に影響を与える要因は決して人々の能力だけではないし生産性以外にも大切なものはあるだろうが、これはPISAに対して疑いを向けるには十分な事実ではないだろうか。PISAの点数は低いよりは高い方がいいだろうが、私はPISAの点を低下させることにつながるのだとしても時間をかけて身につけさせなくてはならない能力が世の中にはあるのではないかと思っている。PISAはあくまで一つの指標に過ぎないことをよく理解しておくべきであり、その他の視点からも教育を評価するべきである。

そして、もしゆとり教育に問題があったのだとしてもかつての詰め込み教育に戻ればいいというものではない。知識を詰め込む教育では先述した「自ら考える力」や「自ら行動を起こそうとする態度」はどのみち身につかないのである。ゆとり教育に問題があったのならその根本の方針は変えないまま新たな対策を打つべきではないだろうか。

 


・その他
教育を改革する際には、国の競争力や子どもの実力を極限まで高められる教育が最善の教育であると誤解してはならない。真に重視するべきは人々の幸福の実現である。人々の能力の向上はそのためのものである。子どもの能力を高めたいがあまりに、子どもの幸福を無視して時間を奪うようなこと避けるべきだろう。もし過度な競争に勝たなければ生きていけない社会であるというのなら、それは世界の競争の抑制によって解決したほうがいいのではないだろうか。


日本は公的な教育費の支出が少ない。GDPに占める公的教育費の支出額の割合はOECDの中では最下位である。ちなみにスウェーデンなどは子どもあるいは若者一人当たり日本の二倍ぐらいの教育費が公的にまかなわれているようである。いくらなんでも日本は教育費を出し渋りすぎではないか。私はまだ財政について詳しくないので触れられることが少ないが、教育は他への支出を減らしてでも優先的に支援をするべきところだろう。

 

 

教育改革を行う際の注意点及び手法

これもまた必ずしも正しい情報ではないので鵜呑みにしないように。

・良かれと思って行った改革が悪い結果をもたらすことはよくあることである。特定の改革案について、それが絶対に優れたものであると信じ込むようなことは避けなくてはならない。

・影響が大きな改革であればあるほど十分な議論をして内容を洗練する必要がある。ただし十分な議論を行うことは議論の時間を無意味に増加させることを意味しない。

・リスクを取ること自体は悪いことではないが、致命的な失敗は避けなくてはならない。ただし、致命的な失敗を避けることは大きな変化を避けることを意味しない。

・慎重さと怠惰さは違うものである。本当は学んだり考えたりすることが面倒だから改革しないのを、慎重であるために改革しないのだと勘違いしてはならない。

・勉強不足が原因である漠然とした恐怖感から変化を避けるべきではない。積極的に学ぶことにより、無意味な恐怖はなくすべきである。

・他の国や地域の例も含めて、既に行われたことのある政策の情報については調べるべきである。

・改革を行うことで、それが成功しても失敗しても新たな知見を得ることができる。我々はどのような制度においてどのような結果が生まれるのかということについてより多くを解するためにも制度の改革を行わなくてはならない。

・考える力と学ぶ意欲および最低限の知識を身に着けさせることに成功したのであれば、その他の教育の制度の構築に多少失敗してもその教育を受けた世代は自力でどうにかする(多分)。


・政策を評価する際には、教育改革の成否ばかりに着目せず、その過程で適切にリスク管理や意思決定が行われていたのかについても見るようにした方が良い。

・政府の変化に期待するのであれば、国民自身が変わる必要がある。政府が適切な改革を行いたいと思っていても、国民の反対に合う恐れがあればそれを実施するのは難しい。

・誰かを敵にしてはならない。現場の人間を責め立てたり政治家や官僚を馬鹿にすれば解決するというものではない。

・本当に社会を変えたければ、重要な情報をより多くの人間に届けるようにするのが望ましい。人々の中にはネットしか見ない者もいればテレビしかみない者もいる。特定の世代のみの変化だけではいけない。分かりやすいキーワードを用意するといくらか情報が広がりやすくなるかもしれない。国民の側も積極的に自ら学び情報を集めることを継続しなくてはならない。


・大きな変化について
社会的に大きな変化を起こす場合は、人々が精神的に余裕を失わないように気を使う必要がある。
例えば、人々の時間が足りなければ当然精神的な余裕を持つことはできないので、大きな変化を起こす場合はそれに何らかの対処をしなくてはならない人々が十分にそのための時間を持つ必要がある。。教育改革においては、後にも触れるが教員が時間の余裕のない状態に置かれないようにしなくてはならないだろう。そしてそれに限らず日本社会においては長時間労働などの問題が解決される必要がある。また、時間の余裕の確保以外には、十分な情報の普及も行う必要がある。重要な情報を獲得できずにあるいは理解できずに取り残されている人がいるのであれば、その人にわかりやすい形で情報を伝えるように努めるべきだろう。


社会全体において本当に急いで起こさなくてはならない変化については、上記の配慮を行って破綻を防ぎつつもできる限り早く行うようにした方が良いだろう。例えば環境問題へ対処するための変化などは早く起こすべきである。一方で、急ぐ必要のない変化については、人々が余裕をもって対処できる速度で起こせば良い。人々はあまりに多くの変化が急速に起きるとそれに対処をすることが難しくなるので、すべての変化を短期間で実現しようとするのは避けるべきである。

 

・私は今後日本の教育が大きく改革されることに期待しているが、もしかすると大学を目指す子どもやその親の中には受験への対策をしづらくなることに不満を抱く者もいるかもしれない。私はその人たちに対しては、そもそも受験への対策をあきらめることと、受験以外の能力を身に着けることを推奨する。

 

教育の変化は政府でなくとも起こせる

日本の政治の改革は遅い。今の若い世代がこの変革の遅さによって自分の人生を犠牲にする必要はない。教育の変化は政府によらずに教育を受けている側にいる者やその周辺の社会が自ら起こすことができる。

例えば子どもは自身の活動を推し進めたいとき、親や教師を説得することでその時間を確保することができる。このとき親や教師は対処することが面倒だからと言って子どもを押さえつけるようなことをしてはならない。子どもの主張のすべてを通すことはできないかもしれないが、行える範囲でサポートすべきである。また、子どもは仮に親や教師の説得に失敗したのだとしても、それはそれで経験が積まれたことになるので落ち込む必要はない。そして説得に失敗したなら失敗したなりに、自身の現状に合わせて自身の活動を推し進めるための時間を確保するより良い手段を考えればいい。

もちろん学校外部の社会が教育の変化を進めることもできる。今の学生はインターネットなどを使って簡単に学校外部の教育に関する情報に接触できるので、それを利用して子どもに教育上の重要な情報を教えるということが考えられるかもしれない。

 

学校教育の改革

学校外の時間の確保

子どもが自らの意志でやることを決めて活動するための時間を確保することが必要である。あるいは公共教育の内容が不適切あるいは不十分であっても対応できるように、学校外部において公共教育以外の内容を学ぶ場を提供し、そこで子どもが学ぶための時間を確保することも必要かもしれない。そのためには学校外の時間が学校における勉強でつぶされることがあってはならない。したがって、宿題を出すことは控えたほうがいいし受験勉強のための塾には行かないほうが良い。

しかし学校外の時間について、自由にさせすぎて子どもがスマホやゲームばかりするようになるのは危険かもしれない。スマホ脳という本があったので読んでみたのだが子どもはスマホ中毒になりやすいらしい。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズも子どもに小さなうちからスマホを渡すようなことはしていない。スマートフォンについて完全に自由に使わせるにしても中学生の半ばか高校生になってからにするべきではないだろうか?小学生の間はスマートフォンを渡すことは控えるか、仮に渡すとしても機能には制限をつけたほうがいいだろう。ゲームについても子どもが小さいうちはある程度は時間制限をかけたほうがいいと思われる。しかし一方で私はゲームを完全に禁止するのは厳しすぎると思うので、一定時間はゲームをすることを認めていいとも考えている。


授業のシステム

生徒が選べる選択肢の幅を広げるべきだが、それぞれの学校で多様な授業内容を用意することには限界があるかもしれない。しかし学校外部に、現在の学校教育に含まれない特定の分野について教えるための補助機関を用意し、その組織がいくつもの学校を掛け持ちしてその分野を教えることで、実質的に各学校で学べる分野を低コストで増やせるのではないだろうか。この方法では、生徒が学べる分野を増やしたいときに、各学校ごとに新しい分野について教える教員を用意せずとも、その補助組織のみにその分野を教えるための教員を用意するだけでよくなる。今はオンラインで教育を行うこともできる。このやり方で柔軟に教える内容を変化させられるのではないだろうか

 


受験緩和

大学受験制度の改革においては、受験生の受験手段の多様化や受験競争の緩和が目指されるべきである。テストの点が低くても高い潜在能力を持つ人や学習意欲の高い人もいるが、その人たちを切り捨てるべきではない。また、原則として受験のための勉強はすることを避けるべきものであるので、若者に多くの時間を受験勉強に割かせることにつながる制度も改めなくてはならない。


AO入試とは、「学校外における活動の評価」「書類審査」「時間をかけた面接」などによって、受験生の能力や意欲を総合的に判断する入試方法である。当面の方針としてはAO入試の拡大を目指せばいいだろう。それにより自身の活動に熱中して学校の勉強に多くの時間を割かないような生徒でも大学に合格することが容易くなる。近年台湾や韓国でも導入が進んでいるらしい。ただし、テストの点による評価方法の方が得意な人間もいるかもしれないので、すべてをAO入試に置き換える必要はない。


しかし以上のAO入試に関する方針は短期的なものに過ぎない。長期的に見れば、日本社会はそもそも受験制度自体を廃止することを目指さなくてはならない。若い世代に受験のための努力をさせるべきではない。仮に大学に入ることを希望する者に何らかの試験や条件を課すのだとしても、大学の授業についていくための最低限の能力があることが確認できたのなら合格させるのが理想である。今の日本の高校生は、大学に合格するために高校生の早い段階から多くの時間を学校の勉強に割く羽目になっている。だが、その暇があったらもっと自分でやると決めた活動をするようにした方がいいだろう。


受験競争を緩和するには大学間の格差を減らす必要がある。どこの大学に入っても十分に高度な教育や支援を受けられるのであれば、特定の大学に入るために過度な努力をする必要性は小さくなるだろう。また、地方の大学の質が向上すれば自ずとそこに向かう受験生が増えるので、地方創生の効果にも期待できるかもしれない。そして、受験競争を緩和するには社会が変わる必要もある。企業は学生を採用する際に学歴でその人を評価してはならない。社会が学歴で見るから就職のために高いレベルの大学に行こうとする者が増えて競争率が高くなる。その結果本来その大学に行くのにふさわしい人がそこに行けなくなるのである。私はもし今後起業をして誰かを採用するのだとしても大学名でその人を判断はしない。その代わり何をやってきたかをできるだけ嘘が通用しないように対策した上で説明してもらうつもりである(本当にそれでうまくいくのかどうかは試したことがないので知らない)。良い企業に就職をしたい人は付け焼刃の努力をするのではなく、普段から何かについてよく考えよく学んでおかなくてはならない。ちなみに、私は職を探す人が過度に企業にとって都合のいい知識や技能を身に着ける必要はないと考えている。ある程度は入社後に教育が可能である。

 

以降は私のただの願望である。私は最近二浪の上で国立大学の物理学科の中でも特に入りやすいと思われるところを受験して不合格となっている。そのときのセンター試験もしくは共通試験での得点率はぎりぎり五割を超える程度であった。また、その時の私はテストの点を取るための勉強以外に、何か実績を証明できるような活動を行っていたわけではなかったので、仮にAO入試を受けていたのだとしても不合格になっていたと考えられる(しいて言えば情報処理技術者試験で応用情報までは合格していたが、それだけではAO入試を突破するには不十分だろう)。しかし私は研究者としての才能も意欲も十分にあるはずである。できることならそのような私があと少し努力すれば学費の安い国公立大学に入れるような制度にしてもらいたい。


教育格差解消

先述の通り日本は政府による教育の支援が少ない。もっと公的な教育支援を増やすことで教育格差の解消を推し進めることができるだろう。これは私の思いついたささやかな方法であるが、学校で生徒に本を購入する機会を与えてみてはどうだろうか。もちろん費用は学校が支払うべきである。買う本の分野はある程度指定しても良いが過度には縛らないほうがいい。また、中には学ぶことの大切さを教えない家庭もあるかもしれないので、学校である程度学びの大切さと学習の方法を教えるといいかもしれない。


柔軟なルートの用意

大学などについて編入をもっと行いやすくするといいかもしれない。飛び級制度の整備も検討の余地あり。高校在学中に大学の教養科目の講義を受けて単位が先取りできる国があるとも聞いている。

大学に行かずに大学院はいけないものなのか。私は大学に行くと自分の勉強時間が削られそうなので今更大学に行こうとは思わない。しかし先端の研究にアクセスできるような環境は手に入れたい。


教師や学校の評価法

教師の評価をその教師が担当するクラスのテストの点数で決めてはならない。学校の評価をその学校の生徒のテストの点数や有名大学への合格者数などで行ってはいけない。それらに対する評価をどうしても行わなくてはならないのであれば、「生徒の学校生活に対する満足度」「子どもの知的好奇心の有無」「最低限の知識の習得率」などで評価してはどうか。テストの点が不必要に高いのであればそれはむしろ悪いことである。

教師の変化

今の日本の教師は自身に課せられる労働が大きいために時間の余裕を失っている。教師の時間自体も増やさなければいい教育を行うことはできない。教師自身が教育について考えたり学んだりする時間が必要である。

教師の時間と生徒の時間の双方を増やすために宿題の量を減らした方がいい。宿題は生徒の時間を奪うだけではなく、教師からも生徒の宿題を確認をするための時間を奪うことになる。また、学校教育で教える知識の量を過度にしてはならない。教育の効果を高めたいのであれば、先述の通り教える知識の量をいたずらに増加させるのではなく、教える知識の質を高めるようにするべきである。

 


各授業について

・芸術について
芸術に関する授業においては、生徒自身が望むものを表現させるべきである。その際に使う技術や手法は、最低限だけ授業で教え、それ以上の技術や手法については生徒が自ら好みのものを教科書やその他の書籍から学んで使うようにすればいい。作品作りにおいてテーマや使用する手法を生徒が完全に自由に決めることを認められないのだとしても、教師の方から指定する条件は最低限に留めなくてはならない。創作活動は子どもが自ら試行錯誤して作りたいものを作るのが一番である。学校はその補助にすぎない。


・国語について
私は正直なところ国語を理解するためにどうすればいいのか全く分からなかった。しかし文章を軽くまとめながら読むという方法を自力で編み出すことにより点数が上がった。この方法は教育では教えられなかった。私自身が注意散漫の性質により授業をほとんど聞いていなかったことも原因かもしれないが、国語の授業でちゃんと意味のあることを教えられているのだろうか。私は日本の国語の授業を受けていても読解力が上がるようには見えない。教師を責め立てたいのではない。これは日本の授業の在り方の問題である。日本の国語教育は要改善である。しかしいろんな文学作品に触れさせておくことはいいことかもしれない。それにより子どもが何かを読みたいときに選択できるジャンルが増えるだろう。

 


学校外教育の改革

民間での教育

・塾について
現時点では主に塾などがこれに相当する。子どもが自分で学ぶ時間を確保するという観点から、基本的に塾に行くことはやめた方がいい。受験勉強さえできたらいいという時代はもう終わっている。塾の経営者はそれを存続したいのであれば体制転換を図るしかないだろう。私はその業界について詳しくないのでそれが実現できるものであるかは分からないが、学校教育では教えられないものについて効率的に学ぶ場を提供したり、大人の学校教育の学びなおしやその他生涯学習の支援を行ったりすることなどが考えられるのではないだろうか。

 

学校外の学習における道標

もしかすると大学レベルの学問を学んでみたくとも、どこから学べばいいのかがわかりづらいために、それを学ぶ気を無くしてしまっている人もいるかもしれない。自力で何を学ぶべきかを見抜く能力を身に着けることも大切だが、そのための参考情報ぐらいあっていいのではないだろうか。私には現時点では、そのような情報は存在しないかあるいはあったとしても簡単に把握できない状態にあるように見える。私はこのそれを改善するためには、各学問分野の専門家や大学などの教育機関が一般人にもわかりやすい形で大学レベルの学問を学ぶ際に参考になる情報を公開すればいいのではないかと思っている。例えば大学で使われるテキストに関する情報などを公開するのはどうだろうか。人々を取り囲む学習環境が、大学に通わなかったばかりに大学レベル以上の学問への道が閉ざされているかのようなものであってはならない。

 


教育を受ける人の改革

進路の選択

選択肢はいろいろある。学校にいる期間は長いので、どの選択をとるのかによって大きく人生が左右されることになる。進路に関する情報収集はまじめに行ったほうがいい。海外留学というルートや高校に通わずに高校卒業程度認定試験に合格して大学に行くルートがある。


しかし高校に行かないという選択肢は安易に選択するものではない。これはあくまで現行の日本の制度下においての話だが、現在の日本では高校を卒業することは実力の証明手段として非常に有効である。頭が悪かったとしても高校(あるいは大学)を卒業しておけば就職はしやすくなる。一方で高校を卒業していない場合は能力が非常に高い場合においてすら就職することが難しくなる。したがって私は高校に行かないあるいは高校をやめるという選択肢を日本の若い世代に対して安易に推奨することはしない。自分の時間の確保は学校に通学しながらでも大きく確保することが可能であるので、一時の勢いで高校に行かないという選択を行わないほうがいいだろう。

親も安易に高校に行かない選択肢を認めるのはやめた方がいいのかもしれない。もし子どもが高校に行かない選択を認めるのであれば、子どもが高校に行かなくても自立できるだけの力があることを確認してからの方がいい。子どもの側は高校に行きたくないのなら親を説得できるだけの材料を用意したほうがいい。


日本の制度として能力の証明手段をもっと増やしたほうがいいのかもしれない。そして企業の側もその証明を先入観から否定してはならない。現時点では学校卒業以外では資格の取得などによる能力証明がある。しかし学校に行かずにそれのみで就職することは難しい。

自分なら学校に行かなくてもやっていけると思っていても、やめた後に失敗する例もある。例えば、私はうっかりモチベーションの維持に失敗して多くの時間をスマホやゲームに浪費している。これは明らかに自分の人生における大きな損失となっている。自分だけはうまくやれるという自信は誤りだった。モチベーションの維持が可能かどうかを確認するという観点から、学校をやめるなら学校外の時間においても確実に自分の活動を継続できるようになってからにした方がいい。

また、学校をやめる場合には致命的な失敗に至らないために何らかの対策はしておくべきである。個人的には高校卒業程度認定試験ぐらい合格してから学校をやめた方がいいと考えている。それに合格しておけば、とりあえず受験なしで入れるIT系の専門学校にいくことなどはできるだろう。不確かな情報で申し訳ないが、それ以外にも何かしら入れるところはあったような気がする。


本当にどうしようもなくなった時は生活保護がある。私は本当に生活がたちいかなくなった人は堂々と受ければいいと思っている。しかしやはり生活保護の間は自身が選べる選択肢の数が狭くなるので、自力で生活資金を稼げるのであればそれがベストである。

他にするべきことがあるから行かないというのと、行きたくないから行かないというのとでは違う。後者は学校をやめないほうがいいだろう。やめても堕落して破滅するだけである。私が完全な破滅を免れたのは確固たる目標があったからである。


私は確かに高校に行かなかったが、高校で教えられる内容については勉強している(物理、化学、生物基礎、数学(過度な計算問題以外高校で教えられる範囲は数三数Bまで含めて全て)、世界史B、地理B、英語、倫理、経済、政治、現代文及び古典については受験で使えるレベルではないが習得している)。そしてそのすべてとは言わないが、それなりの割合で自分にとっては知る価値のあるものがあったと感じている。テストの点のためにどうでもいいことを覚えるような勉強はしなくていいが、高校に行かない場合であっても高校で教えられるものについてはある程度勉強しておいた方がいい。

今後高校教育の質が大幅に改善されるようであれば、今の制度では高校に行かないほうがうまくやれるような人間でも未来の制度では高校に行っておいた方が良いといえるようになる可能性はある。


志望校のレベルを下げる

今の日本で学歴が重視されているのは事実だ。
しかし多少学歴を下げてでも自分の勉強時間を確保したほうが社会人になったとき総合的に有利ではないだろうか。時を経るごとに学歴社会も緩和される。企業もできる範囲で求める学歴を下げたほうがいい。何も考えずにただ高いレベルの大学に行った人間より自分でものを考える人間のほうが優秀である。そして今後の世代は起業をするのであればできる限り学歴以外のものも見るようにしなくてはならない。