世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第十三章:分別知

 

悟りについて私が正しく理解をしているのだとしても、そのおかげで何か特別に哲学的真理を見抜けるようになるわけではない(なったとして一部だろう)。以下に紹介する分別知に関する見解にはいくらか真実に近い考えが含まれているかもしれないが、私の東洋思想への理解が私が他の哲学者より世界について正確な理解ができることには特につながっていないということを留意の上でそれを読み進めてもらいたい。

 

☆分別知系の基礎知識

○帰納法
・実例掌握
植物Aは甘い
植物Bは甘い
植物Cは甘い

・法則化
植物は甘い

・予測
植物Zは甘い


実例の数が増えるほど確実になる?


○演繹
A→B、B→C

A→C


○ベン図を考慮した考え方

A→Bのとき
・B→Aとは限らない
・「AはBに含まれる」or「AならばB」といえる
・「AはBの十分条件」もしくは「BはAの必要条件」といえる


A→B&B→Aの両方が成り立つとき
・AはBの必要十分条件


法則も概念の包含関係(動物>猫などの関係)も、脳の同じ機能を使用されていると考えられる

脳の連想と包含の関係から成る


全体集合とはどのようにして定められるのだろう?

 


☆分別知本質
○分別の生成
「単一の記憶上の一部」あるいは「記憶上の複数の場面における共通部分」を抽出して名付けることで概念が生まれる(そのようにして作られた概念を組み合わせることで概念を作ることもできる)。
概念はそれを作る価値があるときに作られる。


○分別知の本質(分別の生成、法則化、法則の使用)
分別により世界に概念を作り出す。
概念を用いて、世界にどのような状態が表れた場合(世界でどのような条件が満たされた場合)に、何が起きるかという法則を見抜く(法則=条件→結果を示すもの)

世界の構造(これが問題)の一部の状態を見抜き、そこに法則を当てはめることで、世界構造の別の部分の状態を予測できる。時空も世界構造の一種である。


・法則とは
法則とはどのような状態が表れたときにどのような状態が表れるかを示すもの
A→B
これはAのときBが表れることを指す
このときB→Aであるとは限らない


A∧C→B

A∨C→B
という法則も考えられるか
(つまり「条件→結果」の「条件」の部分に複数の条件が含まれることがある)

「A→B∨C」という法則も考えられる

この場合、人はAに加えてどのような条件がととのった場合にBになるのか、Aに加えてどのような条件が整った場合にCになるのかを見抜こうとする
見抜けるまでは確実な予測はできないので、代替手段として確率的予測が行われるようになる

※確率について
確率も根本的には経験的に把握されるものである。
たとえばさいころの目がそれぞれ6分の1の確率で出ることも経験によって把握されたものである。((おそらく幼児は6が一番大きいので一番多く出ると考えたり、6がおもたいのでさいころの下になりやすいと考えるだろう。)
そして経験的に把握された確率を演繹により組み合わせて、別の場合の確率を予測することが可能なのである。

 

・法則の応用、使用
A→Bという法則を知っていた場合
世界にAが表れたとき、Bが表れることを予測できる。

また、人が意図的にAの状態を再現することで、意図的にBの状態を引き起こすことができる


・世界の構造は観察あるいは法則の適用による予測によって把握できる
法則が確実であればあるほどその構造予測は当たる(とはいえいずれの把握法においても絶対に正しいといえる保証はない)

 

○証明(法則の証明)

A→B、B→Cという法則を知っているとする
するとそこから
AのときCとなることを予測することができる

A→Cが正しいと予想されるが、本当に正しいかどうか不明であるとする
このときより確実な法則、A→BとB→Cを知っていたのであれば、
それを用いてA→Cを証明することで、A→Cがより確実な法則であることを確認できる

A→Cより不確実な法則で証明した場合も多少は証明効果はあるのだろうか

 


○観察の手法(法則化の方法)
正負を問わず自身にとって何らかの価値ある現象が生まれたとき、それの原因となる現象を見抜くといい。それにより「条件→結果」である法則を見抜くことができる(その辺の机を半分に分割したところで自身にとって価値のある法則を見抜くことは難しい)
そうするとその後その原因となる現象を再現することによって、自身に価値ある現象を意図的に引き起こすことができる。


分別の高度化によって見抜ける法則は増える
世界に現れるパターンをより多く見つけることができるようになるからである。

学問の発展していない状態で見抜ける法則は少ない、


○法則の検証と正しさ
なぜそうなるのかはよくわからないが、法則は検証すると正しくなるらしい(我々はそれを経験的に知っている)

検証はどのように行うか

★法則が成立することを確認する
例えばA→Cという法則が考えられるとき
実際にAを再現して、繰り返しCになることが確認されたのであればA→Cが検証されたことになる(意図的に再現するものを実験、再現されたものを見るものを観察という)

 

・科学では世界構造と法則を仮定する→そしてそれをもとに予測する

・その予測がなんども当たっていたのであれば、その世界観の検証が済んだということになるのだろう
しかしその世界観が本当に正しいという保証はない

でも正しくなくとも予想のツールとしてその世界観(検証された世界構造と法則)は有用である
既にその世界観を用いて予測すれば当たるという法則を経験的に見抜いているからである

★まとめ(ここはあとからまとめる)
ニュートン力学では絶対時間、絶対空間があるものとして考えていた。そしてその世界観をもとに世界の動きを予測していた。その予測は過去の人類のか額に
(例えば時空の存在は人が勝手に想像したものであり、実際に存在するかは定かではない。しかし人は時空という概念を使った世界観を用いて世界の動きを予測すれば、世界の動きを予測できることを検証して確認したので、その時空の世界観は世界を正確にとらえていなかったとしても世界の予測のツールとしては問題なく扱える)


・経験論もまた経験的に把握されたものである。


○矛盾
・矛盾とは
矛盾とは
A→BとA→非Bの両方が事実と想定された状態のことである
(このときB+非B(B以外の全て)で全ての結果が網羅される(B+Cの場合、DやEなどが含まれていない))


??矛盾とは??
A→B、A→Cは矛盾とは違うのか?いやその場合もC=Bではないということなのだろうか?
矛盾とは、どちらかしか成立しないはずのことが、両方成立することになってしまう状態のこと?


・矛盾している時の不利益

矛盾している場合(例えば、A→B、A→非Bという両方の法則を事実だと思っている場合)
実際にAが表れた場合にBになるのか非Bになるのか分からなくなる


矛盾を回避できることは事実であることを意味しない


○法則の崩壊
・法則から想定される結果とは別の結果が発生した時

・隠された条件の発見による崩壊
ある人が本当はA、B→Cであるにもかかわらず、Bという条件に気づかなかったためA→Cという法則がある者と誤解したとする(例えばA、B→Cが繰り返し起きていたとしても、その観測者がA,BのうちAの部分しか見ていなければそのような誤解をするに至る)

このとき観察者はA→Cであると考えているので、Aが生じたときには必ずCになると思い込んでいる
しかしA&非Bとなったときに非Cとなり、観察者はA→Cであることが誤りであることに気が付くことになる

人はこのときAに加えてどのような条件がそろったときにCになるのかを見抜こうとする
そして見抜くことに成功すれば
A+B→C
という法則と
A+非B→非C
という法則をしることになる

 

別の現象の介入?

 

☆そのほか

・人はつじつま合わせの世界構造や法則を作り出す
古代の人は神や精霊などの構造をあることにし、世界を理解したことにしようとした

なぜ理解したことにしようとするのかというと、理解してないことがあると不安になるからである。不安になる理由は人が経験的に未知の存在が自身に不利益をもたらす可能性があることを把握しているからである。


・人の間に実際はないものをあると見なす認識が共有されていると、それにより人の行動に変化が現れる。例えば人権というものがあるとみなし、それを護らなくてはならないという価値観を共有していると、人々はそれを守るために行動し始める。

法の類も人が作り出した構造物と考えられる。人々がそれがあるという意識を共有することで、社会に秩序が表れる

 


・世界が緻密な法則に支配されているように見えるのは、人々が法則を見出すからかもしれない

 

世界に関するその他の考察

世界の構造

 

・時空について

時空間は物質同様に人によってあることが想定される存在である。その観点から見ればそれらはいずれも等価である。ある人は自身が時空という概念を作らずともそこに時空があると考えるかもしれないが、その考えもまたその人が作り出したものであり無分別においてはそれらの一切が排されたものを見ることになる。

後に気が向けば時空に関するさらなる考察をここに追記する

 

言葉について

・自動連想システム

人の脳には自動連想システムがある。ある物を認識した時自動的にある物が想起される。おそらく人はこの機能により、ある物事について考えているときに自然とアイデアが湧き出たり、ある場面で以前に予定したそのときにするべき行為を思い出しそれを実行に移すことができるのだろう。

 

・言葉の仕組み

言葉(音あるいは文字)と、意味(イメージ)を結び付けて記憶する

するとその後言葉を見た場合にそれを自動連想によってそれに対応する意味を思い出すことができるのである。

 

 

 

 

・言葉の意味の一致
先述の通り言葉の意味を定めることは誰にでもできることであり、その気になれば誰もが自身の都合で世界で既に使われている言葉の意味を別の意味に置き換えることが可能である。それを元に考えれば「太陽」という言葉について従来通りに太陽を意味するものとして使う人もいれば、「太陽」を月という意味で用いたり地球という意味で用いたりする人が生まれてもおかしくない。

しかしそれにもかかわらず多くの人々がある概念を自身が定めた独自の意味ではなく社会の主流派と同じ意味で用いているのは、自身が他者と違う意味である概念を用いていると相手の話を理解することや自身の主張を相手に伝えることができなくなるからである。例えばある人が勘違いからある語を社会の主流派と違った意味で解釈していたとしよう。その場合その人はやがて必然的に自身が相手の主張を理解できていないことや相手に自身の意図が伝わらないことに気が付くことになる。そうなるとその人はその不都合を埋めるために自ら自身の解釈を修正しようとすることになり、結果的により相手に話が通じやすい解釈(すなわち社会の主流派と同じ解釈)を用い始めるようになるのである。このようにして社会に存在するある語に対する複数の解釈は統合されていくのである。これは自ら積極的にある語の意味を社会の主流派と違った意味で定めた場合でも同じである。そのような人は最初は自身の独自の意味である語を用いているかもしれないが、やがて他者が自身の話を理解してくれないことが煩わしくなり結局他者と話すときには他者の解釈に従うようになる可能性が高いだろう。

ちなみに社会の主流派の解釈がどのように形成されるかであるが、それについては語の製作者の解釈が優先的に採用されることになると考えられる。また、ときとしてある語についてその意味が一つに定まらず社会全体でそれに対する解釈が割れることもあるかもしれないが、その場合はより社会的な権威のある人や情報発信力がある人の解釈が主流となっていくことになるだろう。

 

 

・仏教真理そのものを言葉で伝えることができない理由

赤色を見たことのない人に言葉による説明のみで赤という色を伝えることはできない。なぜならば赤という色そのものは相手の知る他の概念を組み合わせるこどで指し示せるものではないからである。赤を知らない人に赤を教えるには実際に赤という色を見せる必要がある。

このようなことは仏教の真理についても言える。仏教の真理を知らない人に言葉での説明のみのよってその内容を伝えることはできない。それもまた相手が知っている概念を組み合わせるだけではそれ自体を指し示すことができないからである。従って相手に仏教真理を伝えるには実際に悟りというものを直接的に確認してもらう必要がある。ただし仏教の真理は赤と違って特定の何かを見せれば確認してもらえるという性質のものではないので、悟りを伝えようとする人ができることは悟りを得る方法を示すことだけである。悟りを得たい者はその説明を頼りに自力で悟りを開かなくてはならない。