世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

第五章:民主主義

 

 

民主主義とは

私は民主主義とは「ある地域の政治を行う権限をその地域の住民の全てに平等に行きわたらせることを目指す思想」のことであり、実際にその状態を実現できる制度こそが民主制であると考えている。誤解を避けるために補足すると、これは「地域の住民の一部によって政治を決める権限が独占される制度」や「政治的な権限が全員に与えられていてもその権限の大きさに差のある制度」は民主制の内に含まれないということである。そして理由は次の節で触れるが私は世界のすべての国に民主化を求めることを推奨している。

ただし、ここで注意してもらいたいのは、私は実のところ世界の国家に対して先ほどの条件全てを完全に満たすことまでは求めていないということである。例えば私は国民の内あまりに年齢が低い層についてはまだ判断力が十分に身についていないので政治を決める権限に制限をかけることも(将来にはその考えを変える可能性が多少は存在するが少なくとも現時点では)やむを得ないと考えている。また、政治家を選ぶための選挙において各有権者が持つ票の間に価値の差がある場合、国はその差をできる限り是正しなくてはならないが、これについてもやむを得ない理由がある場合に限りある程度受容する可能性がある(詳しい説明は後の選挙の項目において行う)。つまり、実際には私がもとめるのは完全な民主主義というよりもそれに近い民主主義であり、私がその国が独裁的であるとして批判を行うのは民主制の度合いが十分でない国家に対してであるということである。

そもそも民主国家と独裁国家の境界線は明確ではない。世界にあるのは完全な民主国家や完全な独裁国家ではなく、より民主国家に近い国やより独裁国家に近い国である。そして私が求めるのは各国家が民主主義であるための条件をある程度を越えて満たすことであり、私が批判するのはその条件を十分に満たさない国家である。


・独裁者による民主主義の定義の変更
世の独裁者(あるいは独裁政権)の中には、民主主義の定義を自身にとって都合のいいように定めることで自身こそが民主主義を体現者であるかのように見せかけようとするものがいる。私は当然このような行いに対していい思いは抱いていない。とはいえ言葉の定義というものは特定の誰かにのみ決める権限があるわけではないので、もしかすると私はそのような行為に対して間違っていると断定することはできないのかもしれない(そもそも私がこの書籍において用いる民主主義の定義も必ずしも一般に流通するものとは限らないので、ある人から見れば私の行いもまた民主主義の定義を自身の都合で変更するものに見えるかもしれない)。だがもしそのようにして民主主義の定義を人々が自身の都合で変更することが認められるのだとしても、私が権力がごく一部の人間によって占有されるような制度を支持しないことに変わりがない。もしある者が民主主義の定義を自らの制度を民主主義と呼ぶことが可能になるように変更し世界に流通する民主主義の定義もそれと同じものになったのだとしても、その後の私は今度は民主主義以外の語を使って地域の住民全員で政治を決めることができるという条件がより十分に満たされた制度を支持するだけである。私は私が独裁者と呼ぶ人々に対してはその事実をよく理解しておいてもらいたい。あなた方が民主主義という言葉の定義を書き換えたところで私の主張内容が変わるわけではない。

 

 


民主主義が推奨される理由


・最新の科学技術と独裁政権
私が世界の民主化を推し進める理由の一つとして独裁政権が新たに開発された科学技術を手に入れることへの警戒心がある。私には危険な側面がある科学技術に対する最も良い対策は、独裁者などの世界の一部の人間が自在にそれを扱えるようにすることを防ぎ、民意に基づいて民主的な方法でその監視と管理を行うことであるように思われる。

私は、この書籍の冒頭で述べた通り以前には人を超える知能を持ったAIを実現できると考えていた。しかしその後インターネット上で複数名の哲学者が汎用人工知能等はありえないと言っていたり技術者が今の技術の延長線上にはその実現はないと言っていたりするのを見てそれはできないと考えるようになった。そして現在の私はその時の名残でさほど根拠はないが心理的にはどちらかといえばそれは実現しないのではないかと考える側に傾きつつも、自身がそもそもAIについて全くの無知であることを認めそのような高度なAIが実現するかどうかは分からないとする立場に立っている。だがもしそのような私の内心の予想に反して実際に知能の側面において人間の完全な上位互換である人工知能等ができてしまえばどうなるだろう。おそらく独裁政権や独裁者は民衆の賛同を得ずに行使できる力を増やすことで民衆による抵抗により容易に対処できるようになるはずである。そして実際にそうなるとますます民主化は困難となり、もしかすると独裁政権が実質的にそれが不可能となるところまで支配を完成させることもありうるのかもしれない。また、現在民主化を求めない人々は、以上の話が実際には陰謀論のようなものであることから現実的であるとは捉えないのだとしても「独裁者が今後新たなテクノロジーを手に入れることは確実であり、それがよからぬ結果を招く恐れがある」という事実については十分に理解しておいた方が良いだろう。例えば、私は軍事技術やAIについては素人であるため確実なことは言えないが、独裁者は汎用人工知能などができなくともいずれは自律兵器の発達により民主化運動を弾圧を効率的に行ったり弾圧の実行者の罪悪感を低減させたりすることができるようになる可能性が高いと考えている。さらにはAIや監視カメラ、あるいはその他の技術によって行われる人民への監視もより強固なものとなっていくことは間違いない。そして今後実際にそのような事態になれば、やはり独裁政権はより盤石なものとなるはずである。

私は以上のような事態をおそれて世界には焦りによる失敗を避けつつも早めに民主化することを推奨するのである。また、今後は民主国家においてもますます民主主義の維持について多くの努力を割くことが必要になるかもしれない。何故ならば、国家に対する非暴力不服従の効力が今後技術の発達により弱まることがあるのであれば、現民主国家が独裁国家化した場合に再び民主化することも容易ではなくなるからである。


直接民主制と間接民主制

選挙等によって国民に選ばれた政治家が政治を行う制度を「間接民主制」という。また、国民に選ばれた政治家ではなく国民が直接政治を行う制度を「直接民主制」という。現在の民主国家においては「間接民主制」を主として採用しつつも、一部に「直接民主制」を取り入れることで民主主義を実現している。

・なぜ間接民主制か
間接民主制は実際に政策決定を決めるのが国民ではなく国民に選ばれた政治家であるという性質により、直接民主制と比較すると民意が正確に反映されない側面がある。民主国家においても民衆の多数派が支持する政策が政治に反映されないことが多くあるのはそれが理由である。しかしそのような性質があるにも関わらず現代の民主国家においては間接民主制が主な制度として取り入れられているのには理由がある。

第一の理由は政治的な判断や決定のすべてを国民が直接行うことは人々や社会に対して受容することが困難な大きさの負荷をかけるからである。人々が直接自らが属する地域の政策を決定する場合には、必然的に国民がそれについて情報収集、考察、意思の表明等を行うことが必要となり、なおかつ社会が国民の意志を確認するために労力を割いたり費用を負担したりすることが必要となる。しかし、政治において行わなくてはならない判断は数多く存在し、それらの判断の全てにおいてそのようなことをするのは現実的ではない。従って政治上の判断の内国民が直接行うものはその必要性がより高い一部の問題に限定し、それ以外は国民に選ばれた政治家が話し合って決めた方が良いといえるのである。そのように全人口の一部を政治家として選出し、それらの人々が話し合うことで政治を決定する方法を採用した場合には、人々全体から政治のために奪われる時間をより小さくすることができ、なおかつ議論の参加者の人数が少ないことから意志の集約もより低コストで行うことができる。

そして、第二の理由は政治の質を向上させるためである。選挙で政治家を選ぶ場合はあまりに何も学ばない人間は当選する可能性が低くなる。その結果国民に選ばれた政治家の能力の平均と国民全体の能力の平均で見れば、前者の方が高くなると考えられる。また、政治家になった際には国から給料が支給されるのでより政治に関する学習や活動に使用できる時間が多くなる。この事実からも選ばれた政治家が政治を行う方が政治の質は高まると考えられる。(ちなみに、各国の議会では議員の活動に対して、「秘書の配属」や「議員図書館の設置」、「議員が立法する際に補佐をする機関の設置」等による支援も行われているが、もし現時点でそのように議員の支援を行う制度が不十分であるならばそれを強化したほうが良い。議員が専門家の協力を得やすくしたり、人々との交流を行いやすくしたりすることが考えられる。)

以上の考えから私は民主制の中枢として間接民主制を採用することは妥当だと認識している。もしかするとそれらの考えの内に民衆の実力への不信などが含まれていることを問題視する人もいるかもしれないが、それでも私はその制度が「人々が政治家を選ぶ権限を持つことで実質的に政治を決められる力を持つこと」及び「政治の品質の向上により人々の生活をより安定して守れること」につながるから間接民主制を主な制度として採用することに賛同している。ただしそのように政治の質を高めるために政治についてより詳しい者に政治を任せるということは、国民が政治について学ばなくていいということを意味しない。国民が無知であればあるほど政治家は間違ったことを主張することが容易になるだろう。より良い政治家を選ぶためには国民自身が勉強することも大切であるということを人々は忘れてはないようにするべきである。

・現民主国家に見られる直接民主制
直接民主制を実現する方法の代表例としては「国民投票」「立法の提案」「解職請求」などがあげられる。例えば日本においては憲法改正の際には「国民投票」が行われている。日本で憲法改正を成立させるには、議会の議員による憲法改正の発議の後に国民投票において国民の過半数の賛同を得る必要がある。


選挙

現在間接民主制を採用している国家においては政治家は選挙によって選出されている。

選挙の流れは次のとおりである
1.政治家になる意志のあるものが所定の手続きによってそれを表明する(※これを立候補という)。
2.1を行った者に対して投票権を持つ者が票を投じる。
3.より多くの票を獲得したものが政治家として活動する権限を得る。



 

・政党とは

・インターネットを活用した投票について
私はそれを導入することについて現時点では否定的に見ている。なぜならば社会がそのシステムを安定して稼働させることと不正を排除することを十分に行えるという主張には疑念を持っているからである。もしそれを実現するのであればそれらの問題を確実に解決できるようになってからにするべきだろう。

 

民主主義において満たされるべき諸条件

表面的には人々の政治家を選ぶ権利や政治家になる権利が確保されているように見える制度であっても、それは直ちに民主制であると判断できるわけではない。民主主義であるためには少なくとも以降に述べる条件が十分に満たされなくてはならない。時にはそれらの条件を満たすことに厳密になりすぎない方がいいこともあるが、その場合でも民主主義を確実に維持できる程度にそれらの条件を満たすように最新の注意を払わなければならない。先述の通り民主制であるか独裁制であるかの区別は明確に行えるわけではないが、以降の条件が満たされなくなればなるほど独裁制に近づくことになるのである。

民主主義において満たすべき主要な条件は以下のとおりである(※以下で全てではない)。
・投票及び立候補における自由の確保
・言論の自由(表現の自由、報道の自由、学問の自由等を含む)の確保
・選挙の定期的かつ適切な頻度での開催

自由とはある存在が外部からの制約を受けずに自身の望む行為を行える状態にあることを意味する(と私は解釈している)。そして民主主義を実現するためには投票や立候補の際の自由を十分に確保する必要がある。例えば形式的には投票や立候補が可能であっても、投票者の投票先が他者により強制的に限定されることがあったり、立候補者が対立候補や現職の政治家からの暴力によって排除されたりすることが十分に抑止されていない制度となっているのであればそれは非民主主義であると評価できる。

そして、民主主義においては言論の自由の確保も大切である。言論の自由が失われると政治家への批判が行えなくなり、人々が社会に現政治家の問題を知らせることができなくなる恐れがある。そうなれば政治家は自身が持つ権力を自身のために扱うことが容易となり、実質的に民衆から国家の最高権力者としての地位を奪うことが可能となるだろう。同様に、もし報道の自由が制限され政権が自身にとって都合の良い情報ばかりを流すことが認められるのであれば、やはりこの場合も実質的に政治家が最高権力者となることが予測される。

また、選挙が定期的に実施されることも民主主義には必須の条件である(※あらかじめ定められたルールに従うのであれば完全な定期である必要はない)。一度選ばれた政治家が永続的に政権を握り続けるのであればそれは独裁である。選挙が定期的に開催されるからこそ、国民が政治における最高権力者で在り続けることができる。

憲法

※以下においては政治家の内に裁判官も含まれるものとする。

憲法とは国家の統治の基本的な在り方を定めた文章の集まりのことである。世界の国家の中には憲法と呼ばれるものを持たない国も存在するが、そのような国においても憲法に相当するもの自体は存在するのが通常である(それらは実質的意味の憲法と呼ばれている)。そして現在の民主国家においては、憲法は政治権力の濫用を防ぐことを目的として政治家に課されたルールとしての側面も持ち合わせており、それは民主主義を維持する上ではなくてはならないものであると言える。何故ならば、そのような政治家が従わなくてはならないルールが予め定められていないことは、一度政治家になった者が次の選挙までの間にその権力を悪用したり次の選挙を開催しなかったりしてもそれを否定する根拠に欠けることに繋がるからである。従って、それを防ぐためにも民主国家設立の際には人々は憲法において政治家が政治権力を任せられている間に従うべきルールや選挙の開催に関する規定を明確にしておくべきであり、さらにはそれに後に説明する権力分立の原理等を定めておかなくてはならない。


○憲法の積極的尊重
憲法はそれを用意しただけでは効力を発揮しない。憲法はそれを多くの政治家が守ろうとすることで初めて効果を発揮し、それに違反しようとする一部の人間を抑え込むことができるようになるのである。もし政治家の全てが憲法を無視した行動をとり始めるのであれば、憲法が機能不全に陥ることは避けられない。従って政治家は自身への統制を無効化しないようにするためにも自ら積極的に憲法に従った行動を行おうとするべきである。また、国民は憲法による政治家への統制が弱まらないようにするためにも、自らそれを尊重する意思のある人間を選挙において選出しなくてはならない。

○民主主義の尊重
国民に政権を委任されたものは、憲法のみならず民主的な規範にも自ら従わなくてはならない。政治家のそれぞれが自制を忘れ自身の思惑を実現するために自身の権力を思う存分振るおうとすれば民主主義やがて崩壊することになるだろう。政治家は憲法で認められる範囲の行動についても民主主義の破壊につながるものについては慎まなくてはならない。そして、国民もまた政治家がそれを実践しているかを十分に監視するべきである。

○憲法違反
原則として政治家は憲法に従って行動するべきである。もし憲法に問題があるならば、憲法で認められた範囲の行動の駆使によってそれを改正することで対処しなくてはならない。しかし一方で私は政治家が常いかなる時も憲法に従うことが絶対に正しいとは思っていない。もし政治権力を握る人々が憲法に従うことが致命的な損害を人々にもたらすような状況が本当に訪れたのであれば、それらの人々が憲法に従わないことが妥当となることもあると私は考えている。だがその場合は政治家は自身に対して憲法に従う人々による抑止権の行使が行われることを覚悟の上でそれに反するべきであり、もし自身への抑止を防ぎたければ抑止権を持つ人々を十分に説得してから行動を起こすべきである。また、一部の人々が憲法に従わないことを選ぶ場合、それらの人々と憲法に従う人々との間に衝突が起きることが予測されるが、その衝突による社会の損失は当然抑えるための努力が必要である。そしてそのための努力としては「憲法を破る際にはその範囲を必要最低限に抑える。」「憲法を破る際には道徳に従った方法でそれを破る。」「憲法に従うことによって生じる不利益が人々にとって致命的なものとならない限りはそれを破らない。」「憲法に違反する際には事前に他政治家や国民からより多くの賛同を得るようにする。」ということが行われるべきであると私は考える。


○憲法改正の条件

憲法改正の条件が厳しいことは憲法の条項をより良い状態に保つという観点からは必ずしも有利ではない。何故ならばそれは憲法に悪しき条項がある場合にも容易に改正できないことに繋がるからである。私は憲法改正の条件をある程度厳しく設定することを、多数派が一方的に国のルールを定めることを防ぎ、更には憲法改正における議論の深化を促すことを目的として支持する。

そして最近日本において現在の与党である自民党により日本の憲法改正の条件(国会の2つの院のそれぞれで全議員の3分の2の賛同を得た後、国民投票において有効投票数の内の過半数の賛同を必要とする)は厳しすぎるので改正するべきではないのかとの疑念が示された。しかし私は自民党の憲法改正の発議の条件を現在の3分の2から2分の1にするべきという体案には反対である。現在のように憲法を改正するためには衆議院と参議院のそれぞれで全議員の3分の2の賛同を必要とすることで議論を深めより多くのものを説得しなければ憲法の改正はできないようにすることができるが、この条件を2分の1にすれば議会の多数派が十分な議論をせずに憲法改正を行うことが容易となるだろう(とはいえ、別の緩和案であれば賛同することもあるかもしれない)。一方で、国会により憲法改正の発議が行われた後の国民投票において、最低投票率設定しそれを下回った場合にはその投票を無効とするという案にも現時点では否定的である。もしそれを認めると、投票率がぎりぎり最低投票率を上回る程度であることが予見される場合に少数の人間が投票を拒否することで強制的に改正案を廃止することができるからである。もし憲法改正を承認する投票に参加しない国民がいたのであればそれは国民の責任である。

○緊急事態条項

世界には憲法等に緊急事態条項等を設置することで緊急事態には行政府の権限を一時的に強化することが制度として認められている国も多くあるようだ。しかしそのような場合でも権力が全く制約のない状態となるようなことはないようにしなくてはならない。緊急事態の権力強化を認めるのであれば以下のような条件を満たすことが必要であると考えられる。

・緊急事態にあてはまる事態については事前に慎重に策定するべきであり、その条件を満たしたかどうかの判定は個人ではなく集団に任せられると同時に、権力が強化される機関の外部の存在によって行われることが強く望まれる。

・権力の強化の範囲は限定的にするべきであり、その制限については単に文章によってそれを定めるだけではなく、実際にその規定に強制力を持たせることができる仕組みを用意しなくてはならない。

・権力の強化には必ず期限を設定し、期限が来た場合には権力の強化は外部機関による継続の承認がなされない場合には停止されるべきであり、その承認を行う機関への恣意的統制が権力強化中に行われてはならない。更にはその承認自体を停止できる権限を権力が強化される機関に与えてはならない。

・権力の強化期間中においても何らかの条件を満たした場合には外部組織がその強化を強制的に中断できるようにするべきである。

 

○永久条項について
憲法を作る際には理屈の上では改正することを認めない条項を作ることも可能である。そのような条項は永久条項と言われている。しかし私は憲法にそれを作ることには否定的である。なぜならば予想外の事態により憲法に書かれた条項が人々に不利益をもたらすことになった場合でも、それを改正することができなくなる恐れがあるからである。そして私が想像するに、現実の状態と憲法の永久条項に致命的な不和が生じれば、結果的に憲法そのものの作り直しにつながるだろう。だがそのようなことが行われると、憲法への信頼性が揺らぐと共に政情の不安定を招くことにつながる可能性がある。それを防ぎたければ永久条項は使うことは避けるべきである。もしどうしてもそれを用いることがあるとすれば、その項目はかなりの精査の上で最低限のみ設定するに留めなくてはならない。場合によっては悪しき条項を設定しようとする者も現れるかもしれないが、そのような行いには事前に強固に反対しなければならない(もし改正不能な悪しき条項が設置されてしまった場合には、私はその部分だけを改めた新憲法を作ることを支持する)。

いかに永久条項によって人々を縛り付けたところでそれが崩れる可能性を全く無くすようなことはできない。誰かが新たな憲法を作り、民衆の大多数がそれを支持し始めてそれに基づいて行動し始めると元の憲法は否応なしにその効力を喪失するからである。よい条項を残したいのであればどのみち人々の間でそれが支持され続けるような努力を継続しなくてはならない。


権力分立

権力分立とは

政治権力の全てあるいはその大半が単一の個人あるいは組織に握られる政治体制においては、その個人や組織が権力を悪用し始めた場合にそれを止めることが非常に困難である。そこでその問題への対策として現在の恐らくすべての民主国家で採用されている考え方が権力分立である。権力分立とは、政治権力を複数に分けてそれぞれを別々の機関に運用させるようにし、更にそれらの機関に相互に監視と抑制を行わせることによって政治権力の暴走を阻止するという考え方のことである。また、そのように権力を分立させることは、必然的に権力を持つ各機関の権力の大きさを小さくし、それが暴走した場合の被害を抑える効果も生じさせることになるはずである。以降では民主国家を維持するうえで必要な権力分立についてより本質的な側面から解説を行っていきたい。

※なお、本著においては相互の監視と抑制を伴わずただ単にある権力を複数に分けて存在させることについても権力分立と称するものとする

権力分立の形態

現在の民主国家においては権力分立制が採用されており、それらの国家においては政治権力を立法、司法、行政の三つに分けて存在させる制度が主流である。しかしこの権力を三つに分ける考え方は絶対的なものではなく、権力の暴走を十分に抑止できるのであればその数は必ずしも三つでなくとも良いと考えられる。例えば現中華民国(台湾)には高いレベルの民主主義が備わっているが、そこでは中国の革命家孫文の思想に基づき五権分立という制度が採用されているようである(※ただし、台湾の民主主義の質の高さが五権分立によってもたらされているとは限らない点には留意するべきである。権力をより多くの数に分割することが必ずしも民主制の実現にいい影響をもたらすとは限らない。)。また、同様に権力の暴走を十分に阻止できるのであれば、議院内閣制に見られるような立法を担う機関と行政を担う機関が完全には分立していない制度であっても問題はない。

 

○権力分立の手順
政治権力を複数に分けて存在させる体制を構築する際には、まず政治権力全体をどのように分割するかを決定し、次にその分割によってつくられる各権力の運用者となる機関をそれぞれ考える。そしてその後それらの機関に付与する「他の権力機関への抑制権」を適切に定めなくてはならないが、その際には各機関が他機関から十分な抑制を受けているかどうかを検証し問題があればそれを修正するように最新の注意を払わなくてはならない(※自機関の権力が抑制が不要なほど微弱である場合はその必要はないかもしれない。また、全体的に見ていずれかの機関が暴走した場合に十分にそれを鎮圧することが可能となっているのであれば、各機関に他の全機関への抑制権限を持たせる必要も、他の全機関に自機関への抑制権限を持たせる必要もない。)。

また、現行の権力分立体制からさらに多くの権力が分立する体制に移行する際には、最初に既存の権力の一部を分離して新権力を作るかその時点まで存在しなかった全く新しい権力を作成し、次にその権力を「それを運用するために作られた新たな機関」あるいは「その運用者として認定された既存の機関」に付与するとよい。そしてそれに続き必要に応じて新権力を持つ機関に他機関への権力抑制権を付与し、更にはその新権力を持つ機関への権力抑制権を他機関に十分に持たせるべきである。逆に権力の数がより少ない体制に移行する際には、まず初めに廃止する権力機関決定し、次にそれが持つ権力を他機関に継承するかそれをせずにその権力自体をも廃止するとよい。


○時間による権力分立
以上で触れた考え方では複数の機関にそれぞれ異なった種類の権力(ある権力を分割することで作られた権力)を与えることによって権力分立を実現しているが、権力を分割し複数の存在に持たせる方法としては「同一機関を異なる複数の時間帯ごとに別の機関と見なし、そのそれぞれに対してある権力を分割して与える」というやり方も考えられる。例えば、行政府が司法府の人員すなわち裁判官を任命する制度を採用する国において、行政府が入れ替わるごとに裁判官の全てを任命しなおせるような制度がある場合は、それぞれの時期の行政府の任命権は非常に大きなものとなる。しかし、行政府が裁判官を任命できるのが、裁判官があらかじめ定められた任期を終えたときに限られているのであれば、それぞれの時期の行政府が持つ裁判官の任命権の大きさは限定されたものとなり、ある時の行政府がその権限を悪用したのだとしてもその影響を一部に留めることができるのである。また、実用的かどうかはともかくとして理屈の上では、「定期的に権力が任される機関を変更することによって権力分立を実現する」ということも考えられるかもしれない。


○単一組織内での権力分立
分立された各権力の内の一つのみが暴走した場合には、他権力が自らに与えられた抑制権を用いることでそれを事前の想定通りに抑えることは容易であるかもしれない。しかし各権力の内の複数が同時に暴走した場合には抑制と均衡はうまく働かなくなる恐れがある。それを防ぐためにもやはりそれぞれの機関自体に暴走を防ぐ(あるいは暴走が過度になりがたい)仕組みを内包させることが好ましい。

◇立法府、司法府、行政府における組織内の権力分立
・立法府
立法府においても権力を濫用しようとする議員が現れるおそれがあるが、そのような者が表れた場合にそれが立法府全体の暴走に繋がることを避けるためには議会内部においても十分に権力を分立する必要がある。そしてそのためには、各議員の自主性を適切に保ち、議員の一部に過度に権力が集中することのないようにしなければならない。例えば政党の党首がそれに属する議員の意志を自在に縛ることができるようにすることは避けるべきだろう。また、立法府内部での権力分立を実現するその他の方法としては二院制の採用等が考えられる。

・司法府
裁判は一人の裁判官ではなく複数人からなる裁判官によって行われるべきである。もし裁判が単一個人によって行われるのであれば、その個人の破綻は直ちに裁判の破綻となる。しかし複数の裁判官が裁判を行うのであれば、その中の少数がその権力を誤用あるいは悪用しようとしてもそれを失敗に終わらせることができるだろう。また、違憲審査等の重大な審理においては情報の見落としを防ぐためにもより多くの人数によって結論を出すことが好ましい。

・行政府
行政府は他機関以上に臨機応変な対応をすることが要求されることから、その意思決定にかかる時間は過度なものとならないようにする必要がある。従ってその内部における権力の分立はそれを行う場合でも限定的なものとなるようにしなくてはならない。しかし一方で単一の個人が完全に一人で行政権を行使できる状態には相応の危険が伴うことになると考えられる。そのため行政内部においても個人が独断で物事を決めることが行い難くなる仕組みを適度に用意することが好ましい。


権力抑制の手段

○発生した暴走への対処(事後的手法)
私は権力を持つ機関が暴走した場合の対応策としては主に以下の二つがあると考えている。
・対象機関の解体
・対象機関の行動の停止あるいは無効化

政治権力を三つに分割する権力分立体制において、もし各権力機関が「他二つの権力機関の双方を直ちに全面的に解体あるいは停止できる権限」を持つのであれば、それは一番最初にその抑止権を行使した機関が一方的に政治を支配することが可能であることを意味する。そして、そのような体制ではいずれかの権力機関が突如として権力を濫用し始めた場合に他機関がそれを抑止することは不可能であり、実質的に権力分立が機能していない状態といえる。従って、権力分立体制を有効に機能させる場合には、各機関が他権力機関のそれぞれに対してその解体やその権限の停止を部分的にしか行えないようにする(自機関への抑止権への抑止を不可能あるいは限定的にすることが考えられる)か、他機関に対して全面的な解体や停止を行えるようにする場合にはそれらの抑止権の行使の決定から実際にその権限が効果を持つまでの間に一定の猶予が存在するようにし(つまり抑止権を即効発動型から遅延発動型にする)、その抑止を受けた機関がその効果が現れるまでの間に抑止をし返せるようにすることが好ましい。ただし、総合的に見て十分に権力分立が機能している場合には、ある機関が他機関のうちの一つに対して無条件に全面的にそれを解体あるいは停止することを認めても良いのかもしれない(分立する権力数が三権より多い場合はなおさらそれが認められやすくなると思われる)。 

濫用されると急速に甚大な被害が人々に生じるような政治権力については、外部機関が必要に応じてそれを直ちに停止あるいは強力な制限をかけることができるようにした方が良い。もしそのような権力に対しての抑止が即効性のあるものでないのであれば、権力の濫用が発生してから抑止の効果が表れるまでの間に大きな被害が生じることとなるだろう。逆に濫用されてから大きな被害に繋がるまでの間に十分な時間的猶予のある権力については、それへの抑止は直ちに行われるわけでなくともよい。

ある権力機関が自身の抑止権を他機関の抑止権に対して用いることはそれが適切である場合には認められる。例えば日本においては、内閣が司法の人員を十分に不適切な方法で選任した場合には国会が不信任決議を行うことが認められるだろう。しかしそのようなことを認めるのであればなおさら各機関が他権力機関からの抑止を自らの抑止権によって完全に無効化できるような状態にすることのないように注意しなくてはならない。


・解体と再構築、引継ぎの過程
対象機関を解体する形式の権力抑制権については、それを行使した場合必然的に解体された機関の再構築の過程が必要となる。そして、ある機関が解体されてからそれが再構築されるまでの間に時間が存在する場合は、その間にはその組織が任されていた業務やその組織がもっていた抑制権の行使は停止されることとなる。しかし当然それらの政治上の業務の中には行われない時期があってはならないものが存在し、そのような業務を担う機関を解体する場合には「解体のタイミングを機関の再構築と同時にする(ある機関の解体の決定後も再構築が成されるまでの間はそれに最低限の業務を継続させる)」「機関を複数に分割しその一部のみに解体を限定する(立法府を上院と下院に分け、解体を下院に限定することで立法府の完全な機能停止を防止する)」「機関の解体後再構築が行われるまでの期間はその業務を他機関に委任する」等の手段によってその業務が停止されることのないようにする必要がある。


○暴走の予防(事前的手法)
・抑止対象機関の内情策定による暴走の予防
他機関を構成する人員の任命権を持つ機関は、その権限を行使する際に誤った行為を行う可能性の低い者を選ぶことで対象となる機関の暴走を防ぐことができる。他機関の持つ力の内容を決定する権限を持つ機関は、対象が持つ力を限定的なものにすることでその暴走の規模を小さくすることができる。事前的な抑制の手段としては他には規則を制定する権限を持つことなどが考えられる。


○調査権と情報開示
各権力間の抑制を十分に機能させるには、それぞれの機関が他機関の暴走を十分に検知できるようにするべきである。そのためには各機関が十分に他機関への調査や監視を行う権限を持ち、同時にそれらは自ら十分な情報開示責任を負うべきである(政治においてやむを得ず情報を秘匿しなくてはならない場合もあるが、それが認められるのはあらかじめ定められた条件を十分に満たした場合に限られる)。もし現時点で各機関が相互監視能力が不十分であるのならば速やかにそれを改善しなくてはならない。


○抑制権に実際的効力を持たせる方法

各機関が武力を持ち、お互いにそれを用いることで他機関を抑制するというやり方では、権力の抑制のたびに血が流れることとなるだろう。平和的に権力抑制を行うためにもその手段としては基本的に武力の行使以外のものを用いるべきであり、やむを得ずそれを用いなくてはならない場合があるのだとしてもそれは最小限に留めなくてはならない。

・平和的抑制の手法

政権の実行部隊を何らかの手段(教育や人事権の行使、法に依る強制等)を用いて正当な機関や命令には従うが不当なそれらには従わない状態に保つことで、ある政治権力機関が正当な手続きによって対象を解体したり対象の行動を停止したりする抑止権を行使した場合にそれが平和的に効力を発揮するようにできる(更には政権の実行部隊が民主政府に逆らわないようにすることもできる)。

議院内閣制において内閣(国会によって選ばれた首相とその他複数名の大臣から成る行政権の運用者)が総辞職しなければならない状態となったにも関わらず権力を握り続けようとする場合、国会が次の首相を選任しその人によって組織された新たな内閣の指示に基づいて官僚、軍、警察、その他公務員が動き始めることで強制的かつ平和的に権力の委譲を行うことができる。しかしここで、総辞職をせずに政権につき続ける者にそれらの公務員が従い続けるとどうなるだろう。このとき手続きの上では権限を失ったはずの首相が実質的に権力を握り続けることとなるのである。このような事態を防ぐためにも、政策を実行するための組織や機関を作る際には、その構成員を十分に高い民主規範を備えた状態に保つための仕組みを用意するべきである。そうすれば、その組織が正当な手続きを無視して権力を行使しようとする者に従うことを阻止することができる。

また、政治権力を握る機関の内の一つが政策の実行部隊への統制を無制限に行えるようにすることは避けるべきである。そのようなことをすれば、その機関が自在にそれらの部隊の思想を非民主的なものに置き換えることができるようになるからである。例えば、政治権力の実行部隊となる組織の人事権(任命権や解任権等から成る)を、分立された各政治権力の内の一つ(議院内閣制においてはとりわけ行政権)に対して無制限に認めることは避けたほうが良いだろう。なぜならばそのようなことを認めると、人事権を握った機関が不意打ち的にそれらの組織の人間を自らに都合の良いように置き換えることで、その組織を憲法等に定められた正当な手続きを無視して自身に従うものにすることができるようになるからである。

 

権力分立とその維持のための努力

○権力分立の弊害とその対策
権力が分立されている体制では、政治家が自身が支持する政策を自身が持つ権力だけで実現することが困難か不可能になっている。もしそのような体制においてある者が特定の政策を実現したいのであれば、十分な数の他権力者を説得してその政策への支持を得なくてはならない。それゆえに権力分立の考えが採用されている国家においては、ある政策を実行するために必要となる時間は単独個人あるいは組織が政治の全権を握る場合よりも長くなる傾向がある。

このことは各問題に対して熟議を促すというメリットもあるが、緊急性に対策をしなくてはならない問題が発生した場合には意思決定の遅さが害を生じ始める恐れがある。そしてこの問題への対策としては以下の方法が考えられる。
・政治家の意識改善
・権力の強化
権力分立の弊害への対処を行う場合にはこの二つの手法のうちできるだけ前者を用いるのがこのましい。


◇政治家の意識改善
国民は相手の話を聞かないような人間を政治家にしないようにするべきである。もし無条件に相手の主張を否定するような人間が多く議会に送り込まれたのであれば、対話による合意の成立は著しく困難となるだろう。また、高い能力を持ちなおかつ民主主義を維持するために必要な要素(他者の話を聞こうとする態度も含む)を十分に兼ね備えた者は、他者の話を聞かないような政治家候補に人々の支持が集まることを防ぐためにも、自ら正当であるにも関わらず既存の政治家には十分に拾い上げられていない声を積極的に拾い上げる政治家となる必要がある。そうすれば一部の人々に極端な不満が溜まりそれらの人が過激な候補に票を投じ始めることを防止することができる。もちろんその際にはあくまで正当な主張に限って支持するべきだが、道徳的な問題があるなどの理由で賛同するべきではない主張ばかりをする人々に対してもその主張の背景にある不満については解決を目指すことを約束できるかもしれない。

政治家は幅広い分野についての理解を深めておくべきである。それにより政治上の各問題について議論する際に新たに身につけなくてはならない知識を削減することができ、それは意思決定速度を向上させることに繋がる。また、政治家は時に自らの考えに完全には一致しない政策であっても、より大きな社会的損失を避けるために承認しなくてはならない場合もあると考えておいた方が良いだろう。


◇権力の強化
政治家は民主主義とは時間がかかる物だということを受け入れ、自らの思い通りにするために権力を強化することに対して十分に抑制的になるべきである。(先述の緊急事態条項の設置等を通して)権力を強化すれば対話による同意を得ずに実施できる政策が増大するが、それが認められるのは相応の必要性があるときに限られる。そして、どうしても特定の個人あるいは組織の権限を強化しなくてはならない場合には、その強化の範囲をできる限り小さく留めるようにしなくてはならない。

 

○権力分立を機能させるための努力
政治の制度を作る際には現実的に生じうる権力の暴走に十分に対処できるようにすることを目指さなくてはならない。国民、学識者及び政治に携わる者はそれができているかを十分に確認し続けるべきであり、もしそれができていないと考えられる場合には速やかに対処しなくてはならない。また、国民が十分に民主主義を理解していなければ、国民によって選ばれる政治家も非民主的になりその国の民主制が崩壊するのは時間の問題となる。権力分立を十分に機能させたいのであれば国民自身が民主規範について高度に理解するようにしなくてはならない。

また、政治権力を握る人々の内一部が急速に力をつけることが可能な制度となっている場合は、他の多数の人間による政治の民主的是正の動きが間に合わない可能性がある。従って民主主義を維持したければ原則として特定の個人が短期間で極端な力を持つことが不可能となるように制度を設計しなくてはならない。やむを得ない事情により少数の人間に大きな政治的権限を渡す場合には必ずその外部からの統制についても強固なものとするべきである。

◇権力分立は制度だけでは十分に機能しない
日本の国会は国権の最高機関であると憲法で定められており少なくとも形式的には他機関に比べても強い権限を持っている。そして国会はその気になれば、権力分立によりいくらか困難さが伴うにしろ最終的には他権力機関からの抑制を無視することが可能であると考えられる。なぜならば国会は自らに都合の良い人間を行政のトップに選び、さらにはその人間を通して司法の人間についても同じようにすることで、他機関からの権力の抑止を防ぐことができるからである。この事実は言い換えると国会に対して権力の抑制が十分に働くのは国会に民主主義を自ら尊重しようとする意志が適切に備わっている場合に限られるということであり、国会がその態度を忘れた場合にはその抑制を振り切ることができるのである。従って国会がもし独裁を行おうとする機関になり果てたのであればそのときは他機関がそれを支持するようになるのは時間の問題である。そしてもし実際にそのような状態になれば、国民の権利を制限する法律を制定することも国民を弾圧する政策を実施することもできるようになり、やがては選挙制にも魔の手が及ぶこととなるだろう。

以上のように国会が独裁的な政治を行い始めることを防ぐためには、国会への圧力をその外部からのみならず内部からもかけなくてはならない。そしてそのためには国民は選挙において民主主義を守る意志のある人間のみに票を投じる必要がある。日本に住む人々の間でも多くの政治的な対立が存在するが、日本国民はその対立に惑わされて民主主義の維持という共通の目的を忘れるべきではないし、政治家の民主主義に違反する行いを過小評価してもならない。目先の利益に囚われて民主主義を破壊しかねない候補に票を投じるようなことは絶対にさけるべきであり、同時に民主主義を積極的に守ろうとする候補に優先して票を投じるべきである。もしまともな候補がいないというのであれば自ら選挙において立候補しなくてはならない。議会が独裁的人間に占められたのであればそれは国民の責任である。

立法、司法、行政の三権を用いた権力分立

既に述べた通り現民主国家においては政治権力を立法権、司法権、行政権の三権に分けるあり方が主流である。そして立法権とは法律を制定する権限であり、司法権とは法律に基づいて人を裁く権限であり、行政権とは政治権力の内から立法権と司法権を除いた権限のことである。ここで行政権の定義に対して、その内容が判然としないことから不適切であると感じる者もいるかもしれない。しかし現在では、時代や場所によってさまざまに変化する行政権の内容を包括的に示すためには具体的な表現を使うことは避けるべきであると考えられているため、その定義は先述のようにより自由な解釈が行えるようなものとなっている。また、一つ前の権力分立の節を含む私のここまでの話を聞いて「もしかすると権力分立体制構築の際には政治権力を以上の三権とは根本的に違った複数の権力に分割することもできるかもしれない」と考える者もいるかもしれない。しかし私は新しく民主国家を設立する際には根本に既存の立法、司法、行政の3つに政治権力を分ける考え方を採用し、そこに自国の状況に合わせて適切な修正を加えた制度を用いることを推奨する。何故ならばその手法は既に多くの国家において完全ではないにしろ十分にうまく行くことが検証されており、それの考え方を用いることで全く新たな三権を作る場合よりも成功する可能性の高い制度を作ることができると考えているからである。

以上を踏まえて私はこの世界において今後も少なくともしばらくの間は立法、司法、行政の三権についての情報が重要となる可能性が高いと予測しているため、この節の以降の部分ではそれらの権力の内容とそれらの権力の間における相互抑止の方法についてより具体的な説明を行うものとする。

 

立法

 

 

司法

 

 

 

○司法への統制

法の解釈の必要性

 

司法の法解釈の暴走は、司法に対して何らかの明確な解釈のルールを強制力のある形で定めることによってではなく、次のものによって防ぐべきであると私は考える。

・抑制と均衡による適度な統制
・法についての深い理解が備わった裁判官による良心に基づいた努力
・法学の発展

 

国民による審査。専門家が警告を発した場合それが十分に妥当なものであると確認できたのであれば、国民は不適切な裁判官を辞めさせるべきである。

 

司法権を担う者(裁判官)の任命は民衆ではなくその代表者が専門家の助言を十分に尊重した上で決めることが好ましい。一般の国民には私を含め司法の人員を適切に選ぶ能力が十分には備わっていない。

 

行政

 

 

余談:私は個人的には大統領制のように行政のトップを国民が直接選ぶ制度よりも、議院内閣制のように議会がそれを選ぶ制度の方が好ましいと考えている。なぜならば政治に対する理解がより高度である集団によって行政権を担う者が選出された方が、能力が低いあるいは民主主義への理解が浅い人間が政権を担うことを阻止しやすいからである。もし前者の制度を採用するのであれば国民が不適切な人選を行うことを防止する制度を導入した方が良いだろう。あるいは議院内閣制と大統領制を併用するような制度も悪くないかもしれない(※とはいえ私は現時点ではわざわざ日本の国政に大統領制を取り入れる必要性は感じていない)。

 

 

官僚、公務員

人事権による統制は時に抑制的になったほうが良いこともある

 

文民統制

・軍を立法府、司法府、行政府のいずれかのみに全面的に従わせるような制度にしてはならない。なぜならばそのようなことをすれば、軍を動かす権限を持つ者が他の政治権力を強制的に排除することが可能となるからである。また、軍内部においても一部の人間に過度に権力が集中することは控えなくてはならない。ちなみに軍の最高指揮権は一般に行政府の長に与えられているが、アメリカのように、戦争宣言の手続や軍の編制、予算制定の権限を連邦議会に与えている国もある。

・軍は人民によって選ばれた正当な政府に従って行動するべきであり、軍がその命令に反する行動や命令されていない行動を勝手に起こすことは原則として認められない。例外として軍に対して政府が非人道的な命令や独裁を推進するための命令を下した場合には、軍やそれに属する各個人が非暴力不服従によってそれに抵抗することが容認される(※ただし、軍隊の運営に著しく支障をきたすのを防ぐためにもそのような態度を安易に取ることは避けるべきである)。しかしその場合も軍に所属する者は武力を用いて政権に攻撃をしかけるような抵抗は絶対に行うべきではないということをわきまえておかなくてはならない。

・軍のように武力を持った組織はそれが誤った行いをした場合の損失が極めて大きいため、他の公的組織よりも厳しく民主的な統制を行うべきである。安全保障上の効率と民主政府による統制では後者が絶対的に優先されなくてはならない。

・軍の人事権は直接的であるにしろ間接的であるにしろ人民の代表が握るべきであり、そのことに不満を持つ傾向の強い人物は人間は軍の上位の地位には就かせてはならない。

・軍のより高い地位は民主主義の規範を深く理解しているもののみに任せるべきである。もしそれらの立場につく者の民主意識が怪しくなれば直ちに解任し、民主規範の高い者に変更しなくてはならない。

・軍人全員の民主意識の向上も大切である。軍のトップが暴走してもその下の階級の者が動かなければ問題はない。そのためにも人が集まらないからと言って思想的に危険な人間を軍にいれるべきではない。人が集まらないならば、十分な報酬を呈示することによって危険な人間の入隊なしで人員を確保できるようにするべきだ。政治家はこの統制が十分に行き届いているかを常によく確認するように努めなくてはならない。
・国民自身の民主主義への理解とその意識を向上させることも文民統制に良い影響をもたらすことができる。軍に入隊するのは国民であり、国民自身の民主主義を支持する意志が不十分であれば、軍が非民主的になるのは時間の問題である。このことは文民統制に限らず公務員全般への統制についても言える。

・軍の一般的な兵士が軍外部の情報から孤立した状態に置かれることは避けるべきである。なぜならば外部の情報から隔離されると軍トップによる扇動が容易になるからである。軍人に対しては教育による思想統制を行うことと外部に開かれた状態にすることの双方を大切にしなくてはならない。

・軍部はもし今後制度に予想外の致命的な穴があったことが発覚し、そのせいで三権の内いずれの政治権力の意志に従えばいいか判断が難しい場合には、少なくとも日本においては議会を優先するべきだろう。なぜならば議会は国民の直接の投票を受けた多数の人間によって構成されていることから内閣よりも極端になる可能性が低く民意の代表としての正当性もより高いからである(このことをもとに考えると大統領制は大統領にも人民の代表としての正当性があることから軍部がそれに乗っとられやすい制度であると言える)。


地方分権

国政を担う政治家が国の各地域の事情を詳細に把握することは、その国の規模が大きいほど困難である。特に地域の数が大きく分けても数十に及ぶような国では、それらの全ての地域について固有の事情を十分に把握することは不可能となるだろう。従って、もしある程度の大きさを持つ国において中央政府のみに全ての政治を任せると、必然的に地方においては現実を無視した政治が行われる可能性が高まることとなるのである。また、中央政府の政治家は全体の効率を重視することで、一部の地域の利益を無視しようとすることもときにはあるかもしれない。

現在の多くの民主国家では以上の問題に対処する手段として、各地域においてその地域を一定の権限を持って独自に統治する地方政府を用意し、更にその政府を構成する者についてはその地域の住民が選挙によって自ら選ぶことができるようにするという方法が採用されている。このようにすることで、各地域の統治がその地域を専門的に把握する人員によって行われることになり、地域の実態に合った政治がそこで行われれるようになるのである。また、地方政府の人員を住民が直接選ぶことによって、各地域の統治が十分に自らが治める地域の利益を考える者によって行われることにもつながるのである。

また、地方分権の実現はもともと一つではなかった国家を一つにまとめる際にも役に立つ手法である。統合を目指す各地域に対して、それが実現した際には適度な自治権を認めること及び中央政府による地方自治権の制限は一定の条件を満たした場合のみに行えるようにすることを約束することで、それらの地域をまとめることはある程度までは容易になるはずである(ただし、そのように複数地域の統一を目指す者は、各地域に自治権を認め過ぎると後の中央政府による統制が弱まることになるという当然の事実を理解し、認める自治権の程度については総合的に見てバランスの取れたものにするよう努めるべきである)。

補足:もちろん国政においてもそれぞれの議員には出身地域が存在するのであり、それらの議員がいくらか自身が属していた地域への暴政への抑止を行う可能性はある。しかし特定地域出身の議員は国の政治組織全体で見ればごく一部を占めるにすぎず、地域の利益の確保をする能力は十分とは言えないだろう(そしてそもそも国政を担う政治家は特定地域のみに偏った判断をしてはならない)。従ってその観点からもやはり各地域の利益を守るためには適度な自治権を持った地方政府を用意することは必須であるといえる。

少数派に対する弾圧の阻止

民主制は基本的には多数派の力が強い制度であり、このことからその制度を実質的に多数派による専制政治を実現するものであると評価する者も世の中にはいるようだ。しかし今までの人類の歴史においては独裁政権によって特定の人々が弾圧されるといった事態が数多く発生してきた(ヒトラーによるユダヤ人虐殺などは著名な例である)ことから、私は民主制が特別に少数派にとって不利なものであるということはないと認識している。また、民主主義では言論の自由が重んじられることからその思想に基づいた制度を採用する国では少数派が言論によって自身の窮状を世間に知らしめることが容易となっており、それ故に民主国家では少数派への弾圧はむしろ避けやすくなっていてもおかしくはないはずである。

しかし、もし仮に民主制が独裁制よりも少数派への弾圧を抑止しやすい制度であったとしても、やはりその制度の下ではより多くの票を投じることができる集団がそうでない集団の権利を無視する可能性がないわけではない。そしてそのような制度の下で人々が他者への思いやりを忘れ自らの利益のみを考えるようになれば、社会全体の効率のために一部の人々にきわめて重大な損失が与えられるような自体が生じることもあり得るだろう。私はこのような事態を防ぐためにも私を含むより多くの人間に自身の利益にならなくとも少数派への弾圧に反対するという意識を持ってもらいたいと考えている。もちろん私のその考えに社会の全ての人々が賛同してくれるということはないだろう。しかし私は実際には人々には十分に他者を大切にする心が備わっているため、かなりの数の人がその態度を積極的にとってくれると信じている。そしてそのように少数派の弾圧に無利益で反対するような人間が社会にある程度の割合で存在するのであれば、民衆の全てがそれに反対しなかったのだとしても一部の人間が目も当てられぬほど悲惨な目にあうことは防げるはずである。


民主主義の実現方法

○民主化運動における基本理念、方針
・徹底的情報収集と考察
民主化運動を指導する者はそれを成功させるために幅広い情報収集とあらゆる手段の検討を行わなくてはならない(もちろんここには道徳に反さない範囲でという条件が付く)。そして、その際には世界の過去の民主化運動の成功例や失敗例から学ぶことが大切である。例えば歴史を見れば民主化した国がしばらくして独裁体制に戻る例が数多く存在するが、その事実を知っておくことでその問題に対して「民主主義を支持する勢力が民主化の半ばから人々に十分に民主主義についての理解を根付かせるための努力をする」等の手段で対処することができるかもしれない。また、民主化に関する情報収集や考察を行う際には必要に応じて複数人での協力を行うべきである。そうすれば個人では解決できない問題を解決したり見落とすべきではない問題の見落とさないようにしたりすることができるはずである。

・全体的視野
民主化を求める勢力の指導者はその目的が達成された後の行動についても早い段階から考え、民主制の実現後に国民がそれに失望することのないようにするための努力を行うべきである。民主化することで何らかの問題が発生することが想定されるのであれば事前にそれに対策をしておかなくてはならない。

・民主化の賛同者を増やすこと

民主化を成功させるためにはとにかくより多くの人間を賛同者にすることが大切である。そのためには、現時点で民主化に無関心であったり独裁政権を支持している人に対しても馬鹿にするようなことは避けなくてはならないし、憎悪や罵倒で相手を変えようとするべきではない。また、なぜ民主主義が好ましいかということについてもよりわかりやすく説明するように努めなくてはならない。時には実際に民主主義にもデメリットがあることを認めなくてはならないかもしれないが、その場合はデメリット以上のメリットを示すことで説得すると良いだろう。

・非暴力不服従

※私の以下の主張は民主化のために暴力的手段を使うことを無条件に否定するものではない。

民主化の手段としては非暴力不服従という手段が考えられる。民衆が暴力を使って現政権を打倒しようとすることは多くの場合現実的ではない。何故ならば、いくら一般の国民が集まってもそれと比較すると圧倒的に装備が充実している国家の軍隊に武力でかつことはほとんど不可能だからである。民主化を目指すのであれば、言論によって既存の政府に自ら民主化を推進することを促したり軍を含む国家の手足に対して民主政府以外には従わないように説得したりする方が良い。

民主化を支持する人々が政府による残虐な弾圧を受けたときに行うべきことは同じような手段でそれに対抗することではなく、嘘や誇張を交えずに政府が行った行為を社会に知らしめることである。そのようにすれば自ずと民主勢力の支持者は増えて行くことになるだろう。また、もし民主主義を支持する勢力の中に過激な行為を行う組織が生じた場合には、他の民主派勢力はその組織に対して明確な批判を行うべきである。

非暴力の態度は相手を暴力的にすることを抑制する側面もあるかもしれない。実のところ独裁政権の内部の者やそれを支持する人々の中にも多くの場合良心が存在する。従って、ある人が民主化を訴える際に平和的手段を用いるのであれば、民主主義に否定的な人々にとってもそれを暴力的な手段で排除することは容易ではないのである。逆にこちらが暴力的手段で民主化運動を行う場合は、独裁政権及びその支持者はその活動に対して暴力的な弾圧を行うことを容易に正当化できるようになるだろう。

 

・犠牲が出ることについての覚悟

 

 

○民主化の実際的手法

 

○民主化後

・暫定憲法に基づく政権運営&憲法の作成
民主化後正式な憲法を作るまでの間は暫定的な憲法に従って行動すると良いだろう。そして正式な憲法を作る際にはそれを民衆の代表が専門家の助力を得ながら作るという方法を採用することが現実的であると私は考える。場合によっては憲法案の一部の内容について国民にその是非を問いかけることも必要かもしれないが、全ての条項について個別に国民に是非を問うことはやめたほうが良いだろう。何故ならば憲法についての情報を十分には得ていない者がその作成に直接的に関わり過ぎることは、後の国家の運営に大きな支障をきたす恐れがあるからである。憲法の作成の際に国民に確認するべきことがあるとすれば、それはその憲法全体に対して賛同するかしないかである。

・民主主義の定着
もし国民の民主主義の意識が中途半端なままであれば再び独裁政権を作ろうとする者が現れた場合にそれを支持する可能性があるが、大多数の国民が民主主義の重要性を理解していればそれを防ぐことができるだろう。従って、先述の通り民主化後には民主主義への理解と支持を社会に定着させるために十分な努力を行わなくてはならない。その際には若い世代のみに教育でそれを行うだけではならない。

・民主的統制の強化
軍や警察、その他の政治の実行部隊への民主政府による統制を十分に定着させなくてはならない。それらの組織の指導者層の中には民主主義に否定的であるにも関わらずその地位にしがみつこうとするものもいるかもしれないが、そのような人間も周囲の人間が民主主義者で固められたのであれば地位への固執をあきらめざるを得なくなるだろう。民主化に反対する者に対しても同じ人間としての敬意は払うべきだが、民主主義のための統制についてはそれらの人に臆さず強気でおこなわなくてはならない。軍部への統制が不十分であれば民主化後であってもクーデターによってそれが覆る恐れがある。


○その他
◇独裁者向け
独裁者はもし本当に強い民主化の流れが生じたのであれば、自らがどのように努力してもその政権を守ることはできないことを理解しておいた方が良い。世界には個人の力では変えられない流れというものがあるのである。私は独裁者に対してはその独裁を維持することに固執せずに、権力の座を民主化を推し進める者に譲るか、自ら民主化を推し進めることを推奨する。どちらがいいのかは時と場合によって変わる。

民主化は民衆の側からだけではなく、政府の側からも行うことができる。そして政府の側からも民主化を推し進める場合は比較的犠牲は少なく済むだろう。私は現在独裁的な政治を行っている人々が自ら民主化を推奨してくれることに期待している。もっとも現在政権を握っている人々が民主化を推し進めることを約束した場合もそれらの人々が後にその態度を変える可能性があるので、国民は民主化の圧力を政府に継続的にかけ続ける必要がある。


◇民主化実現方法補足
・内容の不確実性
私の書いた本の読者に実際に民主化運動に関する計画を立てる者がいるのであれば、その内容が特に民主主義の専門家であるわけでも民主化運動に直接携わったことがあるわけでもない人間によって書かれたことを見落とさないようにするべきである。基本的には民主化の実現方法に関する以上の文章は私の脳内考察に基づくものにすぎず、鵜呑みにするべきものではない。

・参考にした書籍
この民主化実現法の部分を書くにあたって私はアメリカの政治学者ジーン・シャープ(Gene・sharp)氏の著書を大いに参考にさせて頂いた。この本の最後にある参考にした書籍の一覧ではそれが紹介されているので、民主化運動を行う者は余裕があるなら是非ともその内容を自分自身で確認してもらいたい。また、その内容は現在インターネット上で無料で読むことができるようである。

民主主義の維持のための努力

民主主義はその維持のために民衆が努力しなくてはならない制度であり、人々はそれを行うからこそ今の自身の自由や安全が今後も守られるのだということをよく理解しなくてはならない。私を含む大多数の人にとってはその努力は面倒に感じられることが多いかもしれない。しかし私はそれでも独裁者による圧政を恐れて生きるよりは、労力をかけてでも民主主義を維持する方が良いと考えている。時間を使いたくないからという理由で政治家への監視と統制を怠ってはならない。また、時には社会的な混乱により多くの人が民主主義への不信を持つこともあるかもしれない。しかし、民主主義の欠点は各個人の努力、相互理解、教育などによって補うべきであり、独裁制への移行によってそれを解決するべきではない。