世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

脳の限界

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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脳を用いた思考には限界がある

人は自身の感覚器官で直接的にも間接的にも受け取れないような外部の情報は認知できない。そして人は外部から受け取った情報についてそのまま認識するのではなく、その情報を人の脳の機能によって処理された後のものを認知する。つまり人は感覚器官によりフィルターがかけられた情報がさらに脳によって処理されたものを認識するのである。しかしそれは本当に世界を正しくとらえられているのだろうか。私には人の思考や認識はとても信用できるものだとは言えないように思える。仮に人の思考によってそれが正しいことを証明できたのだとしても、その証明はもしかすると誤った思考システムで正しいと判断したものであるので実は間違いであるということになるかもしれない。

また、人に生まれつき備わる知性についても世界をとらえるのに適しているとは限らない。どこの地域の人間であれ等しく論理的思考ができるのは、どの人も生まれつき論理をもって世界を認識する性質を持っているからである。そして私はそれらの生まれつきの能力の形式には、脳や身体を構成する物質や組織の都合からやむをえず決まったものと、進化の過程で有利だから残ったものがあるのではないかと考えている。しかしどちらの理由で決まったものにせよ、それは世界を理解するために生じた性質ではないだろう。

余談:私には脳だけに意識が発生するというのはどこか奇妙に感じられる。脳以外にも意識が発生しているか、物質と意識以外にも多様な何かが存在しているのかもしれない。あるいはそもそも意識しかないのかもしれない。我々はよく考えると物質など一度も見たことがない。我々が見るのは全て意識の上にあるものである。物質というものがあるのだとしてそれはそもそも意識の上にあるものを指しているのかもしれない

 

実証、検証

このように思考というシステムは信用できる保証のないものである。自分の脳内における推論でこれは絶対に正しいと思える考えを得たのだとしても、それが本当に正しいとは限らない。従って私は脳内で思いついた理論はそれを過信せずに、それが本当に正しいのかどうかを実際に試して確認することが大切であると考えている。もちろんそれをしてもなお正しさの完全な保証は生じないが、我々がもつ検証をすると正しい可能性が高まるという経験則からするといくらかの確実さの確保にはつながるはずである。

また、検証の大切さは社会の改革についても同じことがいえる。どれほど時間をかけて改革の案を思いついたのだとしても、それが絶対に正しいと思い込んではならない。特に社会の制度を根本的に全く新しいものに変える場合は、少しずつその制度が実際に使えることを確認しながら導入した方が良いだろう。そうしなければかつての共産主義のように失敗するかもしれない。

 


観察の重要性

実験や観察を行うことで初めて見えてくるものもある。考察だけで気づくべきことに気づこうとせず、実験や観察も行うようにした方が良いだろう。


実際に行動してみること

実際に行動を起こしたときに起こる問題について、事前に推論をして言い当てようとする場合には、多くのパターンを想定しなくてはならないので多くの時間を割かなくてはならない。そして多くの時間を割いたのだとしても実際に起こる問題を全て見抜けるとは限らない。しかし最初から行動を起こしていれば実際に発生する問題を推論なしに直ちに見抜くことができ、その問題への対処法を考える時間が事前の推論に時間を使わなかった分多くとれるようになるだろう。

私は事前に推論することが無意味だと言っているのではない。実際に問題が起きてから対処すると非常に大きな時間がとられる場合も存在する。そのような場合は事前にある程度の考察の時間をとってでも起こりうる問題を予測してそれへの対策を行っておいた方が良いだろう。結局のところこれもバランスの問題である。どの程度事前の考察の時間を取るべきであるかは場合によって違う。問題が発生した場合のダメージが高いと考えられる場面では事前の考察の時間は多めに取った方が良い。

 

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