世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

世界は私が作っている【禅の哲学】

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

kanayamatetsuya.com

私は公案の解を手に入れた後すっかり悟ったつもりになっていた。しかしどうにもインターネット上で私以外の仏教或いは禅の教えを正しく理解したと思われる者の話を調べると、私の得たものとは違うものを得ているようなのである。最初は悟りについて誤解した人間が誤ったことを言っているのではないかと思っていた。だがよく調べると私が知っていることを既に知っているように思える人達までもが、私の知らないことについて同じようなことを言っていた。私はそれを見てまだ悟りには続きがあるのではないかと思うようになった。そして私は仏教に関するさらなる探究に引きずり込まれた。その結果私に徐々にさらなる認識の変化が訪れ、私は仏教についてあらたな見識を得ることになる。この世界は作られたものであったのだ。

・概念について
先述した通りあらゆる概念は人によって作り出されたものである。人が何の区別もないところに区別を作り出し、その区別されたものに名前を付けることで概念が生まれるのである(正確に言えば名前を付けていなくても何かを他と分けて認識しているのであれば区別の機能は働いている。すなわち分別が生じている。)。そしてそれらの概念は全て作らなければ存在しない。人の識別作用が働かなければ「私」は存在しないし、その他の概念も存在しない。過去、未来、現在、空間、有無、美醜、善悪、意識、悟りのいずれも人の分別がなければ存在しない。それらの概念がないという概念も作らなければ存在しない。また、それらの概念を用いて生み出されたすべての考えも当然作らなければ存在しない。何が良くて何が悪いかという考えも作らなければないし、何かをしなくてはならないあるいはしてはならないという考えも作らなければない。


・過去、未来、現在について
過去及び未来の世界はいずれも作られたものである。過去に起きたことも未来に起きることも考えなければ目の前には存在しない。そして過去や未来が自分の認識に関わらず存在するという考えもあとから作られたものである。また、過去と未来に限らず現在の世界というのも自身が作り出したものである。人々は現在の世界と称しながらその時点で起きているであろう世界のいろんな場所における出来事を想像するかもしれない。しかしそれらもまた想像しなければ存在しないのである。同様に「今が今である」という認識も人の思考がなければ存在しない。(※ただし、以上の過去、未来、現在世界が作らなければないものであるという主張は、自身の認識上には存在しないということであって、客観的事実として存在するかしないかについての話ではない。私はそれらが世界の真理として実在するかどうかについては現時点では判断しない。)

 

・意識の外及び意識の内について
過去、未来、現在の世界に限らず、意識の外の世界は全て自身が作り出した想像上の世界であるといえる。我々が意識の外を想像するときそれはすべて自身が作り出したものであり、意識の外の世界が自身が意識していないときにも存在するという認識も自身が作り出したものである。そして、同様に意識の内側にある世界も自身が作り出した世界である。例えば音を聞いたとしてもそれを音と認識するまでにはわずかだが時間がかかる。そしてその認識が行われなければそれは音にはならない。その音は人の識別作用によってはじめて生じるのである。また、視界に映ったものについても、自身が作り出したものである。例えば貴方の視界には今読んでいる文字だけではなくその付近にある文字も映っているが、その文字は形も意味も全く認識していないだろう。そこに文字があるという認識は自身がその文字を識別して初めて生じるのである。視界に写るものもすべて人の識別作用が働かなければ存在しないのである。このように、意識上のものは「意識」を含めてすべて自分が作り出したものである。

 

・私について
私は既に私というものが思考によって作り出された概念なのだと思うようになっていた。私という概念もまた作らなければないものであると考えていた。しかし私は私の体の中心に私がいるかのような感覚を消せないままでいた。私は「私」が作られたものであることを、言葉の上では理解できていても体験を伴った形では理解できていなかったのである。そして、私はもしかするとその感覚はあとから作ったものではなくもともとあった感覚なのではないかと疑うようになる。しかしそうであるのなら私はなぜ目の前に映る景色には私であるという感覚が生まれないのに、私の体には私であるという感覚が生まれるのだろうか(意識が脳内で展開されているものならなおさらそれらは全て自分であるはずなのに)。しばらくして私はかつて経験した私の体を含むあらゆる観測対象が私ではなくなった状態を思い出した。その状態では私の体が私のものであるという感覚は消失していた。そしてその状態から、私の体が私であるという感覚が発生する瞬間を見ようとした。するといつまでまっても私の体に私という感覚が生まれることはなかった。それ以降、私は私の体の中心に私があるという感覚を感じることがなくなった(正確に言えばその感覚が常にあるという錯覚が消失した)。

私が私の体の中にいるかのような感覚もやはり後から作られたものであり、作らなければ存在しないものであったのだ。私の体が死ねばこの世界も終わるのだから、特別それを特別重視して私であるととらえることは不思議なことではない。しかしそうだとしても私の体を私ととらえるのはあとから作られた考えであって世界の絶対的真理などではなかったのだ。よく考えると昔は脳ではなく心臓が本体と思われていた時代もあったぐらいである。「これが私である」という感覚は結構いい加減なものだと言える。

ちなみに過去の私や未来の私が同一人物であるという考えも、同一人物でないという考えも思考によって作り出されたものである。思考がなければそのどちらもないだろう。また、自身の脳を半分だけ他人の脳と入れ替えたとき脳を入れ替える前と後の自分が同一人物であるかどうかは、自分という存在のとらえ方次第で変わる。生まれつきの本能などによってどのような見方を選択するかはある程度定められるかもしれないが、あくまでもそれは自分次第である。

 

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