この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
禅にはさらにもう一段回悟りがあるらしい。いや、正確に言えばこちらこそが真の悟りなのかもしれない。それは悟りを捨てる悟りである。無分別に至れるようになれば、もはやすべての思考を手放すことができるようになっているかのように思われる。しかし実際には、「悟った状態が良い」あるいは「思考を手放した状態がいい」という価値観を手放せていないのである。だからこそ躊躇なく思考の世界に飛び込むことができないのである。ではなぜ思考を手放せるようになったはずであるのにそのような価値観への囚われが残っているのだろうか。それは無分別の状態から再び思考を行い始めた場合にたちまち「苦しみをもたらす思考は悪である」とする価値観が生じ始めることになるからである。真に自在な常態になるにはこの価値観は破棄されなくてはならない。その価値観を手放すことで初めて自身を無分別の世界に追いやる圧力は消失し、自身が作り出した思考の世界に囚われることも平然とやってのけられるようになるのである。
そして私はあるとき無分別への囚われを捨てることに成功した。私は無分別であろうとする必要もなかったのだ。無分別を理解して以降心のどこかに存在していた閉塞感は消滅した。私はこの状態を十分に言い表す術を持たないが、強いて言えば冒頭で紹介した荘子の混沌の例えがもっとも近いように思われる。荘子が悟っていたかどうかなど私には分からないが、荘子の例えはまさにこれを表現するのに最適だろう。あるいはこれこそが涅槃と表現されるべきものなのかもしれない。無分別に囚われなくなったとはいえ、思考をやめれば思考の苦しみから解放されることに変わりはない。思考の苦しみから解放されたければ思考をやめればいい。しかし逆に思考に囚われたければ囚われるのもありである。思考を手放すのも思考に囚われるのも自分の自由である。実際はそう都合よく切り替えられるものではないかもしれないが、この段階に至ればもはやそれも気にならなくなっているだろう。それ以降の私は真に自由の身となった。
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