この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
悟る際の心構え
大層に取り扱われているが、実のところ悟りなどは大したものではない。今まで思考を手放せる人が少なかったのはただ単にその方法がわかりやすい形で広まっていなかったからではないだろうか。悟りを開く際にはあまり身構えなくても良い。人によっては一週間もたたないうちに悟るだろう。また、私はここまで悟りということばを多用したのだが、実のところ悟りを目指す際は悟りを目指すという認識は捨てたほうが良いのではないかと考えている。なぜならば悟りなどは悟ってないものから見ればあるかないか定かではない概念であり、それを目指すのはいたずらに迷いを生じさせることになるからである。あなた方はおそらく「悟り」などというものは目指さずに、どうしたら苦しみから解放されるのかを考えるようにした方が安心してそれを目指せるだろう。私の話や仏教の教えは苦しみからの解放を目指す際に参考にする情報にすぎない。
仏教について学ぶ際には権威に囚われてはならない。中には自身の禅の指導者に傾倒しそれを絶対視して他の教えを無条件に否定する者もいるようだ。しかしそのような態度は当然不適切なものである。なぜならば誰かを盲信すればその人たちが誤ったことを言っていた場合に正しい道に戻ることが難しくなるからである。従って釈迦や禅師の話す内容を疑うことを封じてはならない。なにより釈迦自身も自分の言うことを疑わずに信じることのにしないように警告している。仏教について学ぶ際は、自分で仏教の思想を再構築するぐらいのつもりで取り掛からなくてはならない。そこまでして初めて真にその思想を理解することができるのである。
言うまでもないことかもしれないが私自身の言うことについても過信するべきではない。私の悟りに関する説明は、日本の禅の思想に強い影響を受けたものである。しかし日本の仏教はそれがインドから伝わってくる過程において改変が加えられていると言われることもあるので、もしかすると私の説明には本来の仏教とはいくらか乖離が見られるのかもしれない。また、私の悟りに関する説明は私自身のその経験の後に当時のことを思い出しながら書いたものであるが、その際に正確にそれを説明できている保証はない。もしかしたら記憶違いの可能性もあるかもしれない。仏教について本当に正しい理解をしたいのであれば私の話は参考に留め、あとは自力で考察を行ったり情報を調べたりした方が良いだろう。悟りを目指す際は以上のことを理解の上でその探究を行ってもらいたい。
無分別に至る方法
私は考察と観察を行うことで無分別に至ることに成功したが、実のところどのようにすればそのような状態になれるのかを正確に知っているわけではない。以下で一応自分なりに考察した思考を手放すための方法を公開しているが、それは残念ながらうまくいく保証をできるようなものではない。無分別を目指すのであれば私の話は参考程度に留めてそれぞれで自分に合った方法を探したほうが良いだろう。仏教では宗派によっていろんな方法が説かれているがそれを調べることによっても何か見えてくるかもしれない。
無分別に至ることを目指す際は思考を根こそぎ消そうとする必要がある。無分別に至らなくてはならないという考えや、自身を思考へと駆り立てる価値観などを含むすべての思考を消す必要がある。しかし、思考を消すとは言ったが、そのためには思考を無理に抑え込もうとすることよりも、「思考を自ら積極的に作らないこと」や「発生してしまった思考を追わないこと(それについてあれこれ考えないこと)」を重視した方がいいだろう。それを実践すると結果的に無分別に近い状態になることができるのである。思考を追っているうちはいつまでたっても思考を手放すことができない。何らかの考えが一度湧いたら次を生じさせてはならない。次が生じてしまったのなら次の次を生じさせてはならない。途中で思考が湧いたとしてもその事実を悪としていろいろ考え始める必要はない。私は完全に思考を無にすることができるとは思っていない。どうしても何かしら思考が生じてしまうことはあるだろう。それに対してあれこれと考えるべきではない。
悟りを目指す際は無分別に至ること自体よりも、「思考の世界が自分によってつくられたものであるということに気づくこと」や「それらを作らずにいる方法を知ること」の方が大切なのかもしれない。無分別に至るだけで悟れるのであれば、誰しも日ごろから時折思考を停止するタイミングを持っているので既にすべての人が悟っていることになるはずである。また、我々はそもそも人間である以上いくら雑念を消そうとしてもそれは必ずある程度発生してしまうものであり、そもそも完全な無分別などは実現することができないだろう。従って悟るために必要なことは無分別に至ること自体ではない。
私が私という感覚を喪失させる際に行っていたことを考えると、あるものの発生を抑えるためにはそれが認識される瞬間を観察しようとするといいのかもしれない。そうするとそれは不思議といつまでたっても発生しないまま終わるのである。これはおそらく観察することに必死になって私を作る余裕がないからだろう。そしてものがいつまで立っても発生しないのを見て、「それは自分が作らなければ発生しないのだ」ということに気が付くのである。あるいは、自身が「ある」と認識しているものをじっと見続けると、そのものが実は一瞬しか存在していないことに気が付くかもしれない。ものをものと認識する時間はそんなに長くない。ちらちらとあったりなかったりするのだ。ものを認識するのは本来一瞬のできごとなのだが、それについてあれこれ考えるからずっとその物への認識が残り続けるのである。そしてそこで認識ないタイミングにとどまれるようになれば分別が消せたことになる。それが無理なら逆にものを認識し続けようとするのもありかもしれない。目の前にあるコップを寸分の隙も無く認識し続けることは難しく、ずっと見続けるといつのまにか認識しない状態が長く続くことになるかもしれない。
悟るために執着を捨てる必要はない。執着は結果的に捨てられるようになるものである(後に触れるが捨てない選択もできる)。悟りを目指す人も普段は執着を持ちながら生きているので問題ない。また、執着を捨てようとするときはそれ自体を手放そうとするのではなく執着をもたらす思考を消そうとしたほうが良い。※詳しくは後の執着についての項を参照
思考を手放す上でのその他の注意点
・多くの人は考えることでどうにかなると思い込みすぎている。その思い込みを断つべきである。
・思考を手放さなくてはならない。
「思考を手放さなくてはならない。」という思考も手放さなくてはならない。
「「思考を手放さなくてはならない」という思考も手放さなくてはならない。」という思考も手放さなくてはならない。
...
以上のような思考を全て捨てる必要がある。
・思考が消えたことを確認しようとするな。確認しようとしはじめると途端に「確認しようとする思考」が生まれ始めることになる。
・思考で結論付けなくてはならないという思い込み
例えば絶対主義にしても相対主義にしても、自身の立場を絶対主義あるいは相対主義という言葉で表現しないと落ち着けないという人間の性質が作り出したのだろう(それが間違いとは言わないが、しかしそのように結論付けない方向もあるのだ)。何かの立場に絶たなくてはならないという価値観を捨てる必要がある。当然「何の立場にも立たない」という立場をも捨てなくてはならない。難しいことを言っているように見えるかもしれないが、ただ単に思考を停止すればいいのだと考えればさほど難しいことではない。私が無分別を目指す際に「何の立場にも立たない」ということを含めて一切の立場に立つなというのは「何の立場にも立たない」という結論を思考によって出すことすら停止するべきだという意味である。こう考えると後に触れる公案の答えもさほど難しいものではないのかもしれない。(補足:以上の話はあくまで無分別に至ることを目的とする場合に適用される者であり、通常の生活において何らかの立場に立つことを否定する者ではない)
・思考をやめようとすると思考をやめること自体への不安が生じることもあるかもしれない。しかしその不安にしたがって思考を再開することは絶対的にしなくてはならないことではない。
・矛盾をいついかなるときでも解決しなくてはならないのだという思い込みを断たなくてはならない。言葉の世界に囚われる人は完全な理屈を作らないと十分に安心することができない。もし完全な理屈を作った気になれたのだとしてもそれと矛盾する事実が現れるとたちまち不安になり始めることになる。
・無分別に対するイメージ
あなたが無分別の世界に対して何らかのイメージを持っているのであればそのイメージもまたあなた自身が作り出したものである。
・ものがずっとそこにあるという認識
物というのは自身の認識の世界においては自身が認識した時にしか存在しない。また、ものが自身が観測していないときにもずっとそこにあるという認識は人が後から作り出したものである。では逆に物は自分が見ていない時には存在しないのだろうか。実はそのように「物がない」という認識も自身が作らなければ存在しないものである。「ある」も「ない」も自分が作らなければ自身の世界には存在しない。思考を消すということはいずれの認識も消すことである。
「ものがある」「ものがない」という認識の両方を喪失した状態がいまいち想像できない人は、人は昨日の最初の食事をとったときには太陽が宇宙に存在するだとか存在しないだとか考えていなかったことを思い出してほしい。そしてその状態をそのまま維持すれば自身は太陽についてあるともないとも認識しないままである。これは「私」を含む他のあらゆる概念についても同様であり、すべての概念は日常に潜むそれを作ってない状態を維持すれば発生しないままである。
私は客観的事実として物が自分が見ていない時には存在しないということを言いたいのではない。ただものがずっとそこにあるという認識もものがそれを見ていない時は存在しないという認識もあくまで自分があとから作り出した考えでしかないということを言いたいのである。
・無分別の悟りを変に実現が難しいものだと思い込まないほうが良い。人の苦しみの多くは考えることによって生じており、思考を手放すことで少しでもそれらから解放されることができたのであればそれはもう十分な成果である。
無分別への囚われの破棄
この段階に至ればもともと無分別と分別の区別が存在していたところにそれらの消失も加わり、無分別と分別の双方が肯定と否定の双方を帯びるようになる。また、この段階では囚われないことにも囚われない真に自由な状態が実現されると同時に、老荘思想で言うタオをとらえられるようになり、自身がそれの一部であることにも気が付くことになる。
私がこれを得たのは確か思考を手放すことすら煩わしく感じていたときのことであった。おそらくそれは苦しみから逃れるために思考を捨てることがつまらなく面倒に思えてきたときに自ずと訪れるのである。この段階に至る方法について言えることは現時点ではこれ以上存在しない。ただこれを得ることは無分別と比べるとさほど困難なことではないだろう。
<<前の記事|一覧 |次の記事>>