世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

執着の手放し方

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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執着とは何かを簡単には諦められないほどに強く求める気持ちのことである。その「何か」には、人や物だけではなく、それらの状態やそれらを取り囲む環境なども含まれる。執着は苦しみの原因である。何故ならばそのように何かを求める気持ちがあると、それが手に入らなかったときや、それを失ったときに苦しみが生じることになるからである。また、求める気持ちが強ければ強いほど、それが満たされなかった時に生じる苦しみも大きなものとなる。

仏教においてはそのように苦しみの原因となる執着は捨てるべきものとされている(執着を捨てることへの執着も捨てるべきものの範疇に含まれる)。そして、執着は思考を手放すことによって無くすことができる。何故ならば思考のないところでは執着の対象を認識できない以上執着心を起こすことができないからである。しかし実のところ、そのようにして執着を手放すことは絶対に正しいことというわけではない。私はそれを推奨はしないが、思考に囚われなくなった人は、苦しむことを覚悟してあえて執着を持つ選択をすることもできる。当然執着を持つのであればその執着の対象が損なわれた場合に苦しむことになるが、もし何らかの執着を持つ生き方の方が好きであるのならそれを持つ選択をすることに問題はない。

だが、執着する生き方を選ぶのだとしても、やはり執着が無意味に膨らんでいくことは抑えたほうが良いだろう。執着は執着を呼ぶ。例えば家族を持つ場合、まずその家族を失わないことに執着するようになる。そしてそうなると次は家族を守るために必要なお金に執着するようになり、更にはお金を得るために必要な道具などに執着をするようになる。このようにしてある執着を持てばそこから新たな執着がどんどん増えていくのである。当然そのような執着の増加は抑制したほうがいい。そうしなければ苦しみの量がどんどん増えていくからである。そのためには、普段からよく自身が持っている不要な執着に気づくようにすることが大切である。そしてそのときに捨てられる執着の量は、既に紹介した「足るを知る」という考え方を実践することで増やすことができる。少ないもので満足できる人は、自身が持つ執着の大きさも少なくて済むのである。ちなみにこのとき、既に思考への囚われから脱している人は、ある執着についてそれが余計なものであると気づいてしまいさえすればそれを簡単に捨てることができるようになっている。

執着を捨てることを考える場合は、通常なら捨ててはならないと考えられている執着についても捨てることが可能であることを理解しておいた方が良い。ここではそれを配偶者への執着を例として説明する。仏教の戒律で配偶者を持つことが禁じられているのは、配偶者を持てば執着が生じ、執着が生じれば苦しみが生じるからである。苦しみからの解放を目標とする仏教においては、当然そのような事態を避けるために配偶者を持つことを避けるのである。しかし中には配偶者を持ちながら苦しみを減らしたいという人もいるかもしれない。私はその場合、その人は配偶者を持ちつつも相手自身や相手の状態あるいは在り方に対しての執着を断つようにすればいいのではないかと思っている。相手は自分の望みに反して死んでしまうこともあるし、時には相手が何らかの事件や事故に巻き込まれて強い苦しみを感じることになるかもしれない。しかしそのような場合においても相手が生きていることに執着したり相手が苦しんでいないことに執着していなければ、苦しみの発生を抑えることができるだろう。

この話を聞くと、私が配偶者を大切にしないことを推奨しているとんでもなく非情な人間なのではないかと誤解されるかもしれないが、私はそのようなことを推奨するためにこの話したのではない。私がこれに触れたのは単に愛する者が死んだり苦しんだりするのを見て苦しんでいる人の苦しみを和らげるためである。今そのような苦しみを持っている人は、先述した執着を断ってしまってもいい。相手への執着を断つことを相手を大切に思う気持ちを捨てることと混同する必要はない。相手自身や相手の状態に執着せずとも、相手を想ったり大切にしたりすることはできるし、逆に相手に同じようにされることも可能である。もっとも実際には配偶者を持った時点でどうしても多少の執着は生じると思われる(例えば私も今後誰かと結婚した場合にはその人に対して浮気を認めることに抵抗感を持つことは避けがたい)ので、本当に苦しみから解放されたければそのような人を持たないようにした方がいいだろう。

 

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