この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
苦しみからの解放の限界
結局のところ苦しみはどこまでいっても完全に消せるようになることはない。それから完全に逃れることはあきらめたほうが良いだろう。そうしない者は逆に不幸を増幅させることになる。
・痛みについて
悟っても痛みを感じなくなることはないし、痛みに耐えられるようになることもない。しかし痛みを感じて苦しんでもその事実に動じることはなくなるし、仮に動じたとしても今度はその事実に動じることがないのである。あるがままとはそのような状態のことを言う。
・精神的な強さについて
悟れば苦しみは減るが精神的に強くはならない。
悟った後の自己
悟った後でも「私」なるものを作ることはある。それは生きる上であったほうが都合がいい概念だからである。しかし悟ればあくまでそれは自身が作り出したものであるということを理解するだろう。
悟りと人格
ある人が悟ったとしてもそれだけでその人が人格者になるわけではないため、その人が道義的に誤ったことを言ったり行ったりする可能性は依然として存在し続けるだろう。また、悟れば過剰な執着は持たなくなりそれゆえに他者との対立も減少することはあるかもしれないが、それだけでは他者を大切にする心を持つことにはつながらない。それを持つためには自ら悟りとは別の努力をする必要がある。そしてその努力は他者のためにもなるがそれ以上に自身のためにもなるだろう。
仏教は善への執着を減らすことで悪人を増やすか
私の予測では仏教を広めることはいくらか悪人を増やす効果がある。例えば、根が悪である者が特定価値観への執着により行動の面では善となっていた場合、その人が悟りを開くことは行動の面での悪人を増やすことになるかもしれない。だがそれで仏教の教えを危険と考えるのは早計である。何故ならば、以上の例とは逆に根が善である者が悟りにより執着による悪を捨て善人となることもありうるからである。また、総合的に見ると仏教の普及は、人々から無用な執着を減らすことで社会の争いを減らし、人々の理論の暴走を抑制することで人々の対立のより良い形での解決を促進する効果を生むと予測できる。従って私は自身が仏教の教えについての解説をおこなったことは総合的には人々に良い影響を与えると考えている。しかし、万が一私のその行動が社会をよくするうえで逆効果になることがあればそれは悪気のないことなので多めに見てほしい。
言葉に囚われない人
悟りと呼ばれる気づきを得た人は、自身の考えの整合性を保つために肯定するべき考えを否定することが減り、自身が持つ複数の良い考えの間に矛盾が生じる場合には、労力をかけてでもそれを解消した理論を新たに構築するべきであればそうするが、そうでなければ矛盾する考えをそのまま内包するのである。また、そのような人は矛盾のない理屈を作ることにも逆にそれを作らないことにも囚われず、矛盾を受容していいという考えを根拠にして矛盾した理屈の正しさを証明したりすることもない。
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