この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
慈悲は生きとし生けるものすべてに向けるべきものである。特定の存在を慈悲の対象から外してはならない。慈悲は自分が最もそれを向けたくない相手に向けて初めて良い影響をもたらし始めるのである。自分がもともと大切に思っている人や自分に優しくしてくれる人にだけそれを向けるのでは意味がない。しかしそうはいっても自身に酷いことをしてきた相手に対して慈悲を持つことはなかなかできないのが人情というものである。多くの人にとって自分に害を与えてくる相手に慈悲を持つことは自分ばかりが損失を被る気がしてしまうために困難である。また、多くの人は一度慈悲を向けることに成功した相手に対してもそれに対して裏切りで返された場合にはたちまち慈悲を停止せずにはいられなくなるのである。
私はその問題に対処するためには一切の条件をつけずただひたすら慈悲の心に徹するということが必要であると考えている。人は通常何かをするときにはその行為をする理由やその行為に対する見返りを求めてしまうものである。しかし慈悲を持つという行為についてはそのようなものを求めるべきではない。慈悲は理由や利益がなくても持つべきものである。相手がこちらの慈悲に対して裏切りで返してきたのだとしてもそれを停止してはならない。相手がこちらの慈悲に答えずいつまでたっても非道徳的な行いを改めなかったのだとしても、その人への慈悲を停止してはならない。
ただし、ここで注意が必要となるのは実際には私が慈悲を本当に無条件で持つべきものであるとは考えていないということである。私は慈悲を疑うこと自体を封じるつもりはない。そしてもし慈悲を持つことが逆に他者を不幸にするということが判明すれば私は慈悲を封じることも検討するだろう。つまり「慈悲がよからぬものであると判明する」という条件を満たした場合などにはそれをやめるのである。また、実際には私が慈悲の実践を自身や他者に求める際にはそれらの幸福という目的を掲げることもあると言わざるを得ず、その点を考慮すると本当に慈悲が無条件のものとは言い難い。私が無条件に慈悲に徹するべきだといったのは、あくまで無条件であるつもりで慈悲に取り組めということにすぎない。
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