世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

ある程度までは利己的な態度を受容すること【倫理】

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

kanayamatetsuya.com

私は自身や他者が利己的な態度をとることをある程度までは受容する。ここでいう利己的な態度とは、他者に損失をもたらしうる行動を自身の利益のために肯定する態度のことである。例えば子どもが幸福になる保証はなく苦しみに満ちた人生を送る可能性があるのに、子どもを子ども自身の同意を得ずに一方的に作ることは利己的な態度といえる。あるいは人は生きているうちはどうしてもいくらか生き物を殺してしまう(おそらく完全菜食主義を選択したのだとしても耕作地を作る際にいくらか生き物を殺すことは免れない)のだが、それにも関わらず自然にある寿命に満足せず医療に頼って長く生き続けようとすることは利己的態度といえるのかもしれない(どうせ人は死の苦しみを味わうのだが、他の生き物のことを考えるのであればそのタイミングは早い方がいい)。

しかし私は以上の利己的態度を消しきらないことを悪とはしない。これは単に私の心の弱さなどからくる結論である。私は完全に自身の利己的態度を抹消した人間になる覚悟を持つことはできない。そしておそらく私以外のほとんどの人もそれは同様であるだろう。ゆえに私は自身に対しても他者に対しても利己的態度を完全に根絶することは求めない。ただし、これは人々が自身の利己的態度を野放しにすることの肯定ではない。利己的態度を持つことをいくらか受容するとはいえ、その程度については節度あるものにするべきであることを忘れてはならない。0か100かの思考に陥るべきではない。利己的な態度の完全な廃絶も利己的な態度の度が過ぎる増長も私は肯定しない。

私は自身やそれ以外の者に対して、「自身がどの程度利己的な態度を持つのかについて適切な頻度で考え直すこと」及び「その際にはそれぞれができるだけ肯定する利己的態度の程度を小さくするようにすること」を求めるつもりである。また、人によってどの程度の禁欲でどの程度の苦しみが生じるのかには差があるので、私は他者に対して自身と同程度の水準まで利己的態度を減らすことを必ずしも求めはしない。しかし私は度の過ぎた利己的態度を持つことについてはやめることを推奨し、場合によっては法律の制定によって禁じることも支持するつもりである。これは理不尽に感じる人もいるかもしれないが、身勝手に過ぎる者は自身の利己的態度は他者の利己的態度によって封じられ得ることを忘れるべきではない。そして、利己的態度を受容する人は、自身がある行為を肯定して行うのであれば、相手に同じことをされそうになったときにそれを辞めるように言っても納得してもらい難くなることも理解しておいたほうがいいだろう。例えばある人が他者を殴りたいがために自身が他者を殴ることを肯定したとき、相手が自身を殴りたくなった時にそれをやめるように言っても説得力は大幅に失われているのである。私はそのような事情もあって基本的に相手にされると本当に困るような行為を自身が肯定して行うことはしない。ある行為について自分は行ってよくて自分以外の者は行ってはならないという理屈は社会においては支持されないのが通常である。

 

※ちなみに肉食に関する私自身の立場は、他者に強制することには慎重あるいは否定的であるものの、自身や他者に対してその肉食量をできるだけ減らすことを推奨するものである。そしてその目的は動物に与える苦痛と環境への負荷の低減であうる。この件については今は自身の勉強不足もあり詳細な説明は行えないが、後にそれについての考察と情報収集を行ったうえで別の記事で詳しく紹介する。

 

<<前の記事|一覧 |次の記事>>