世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

自己を律することの大切さ

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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自己を律することの必要性

悟りの有無にかかわらず自己は十分に律するべきである。もしそれをしなければ、執着や欲が増大し、自身や他者を傷つけることになるだろう。また、徹底された悟りを得たものは執着により無執着や無欲が保たれることはないため、自らの選択によってそれらの増長を抑える必要がある。


律する方法

・清廉潔白さを崩さない
道徳的潔白さは常に保たれるようにしなくてはならない。不道徳な行いは小さなものでもしないように努めるべきである。もし欲に負けるなどして不道徳な行いをしてしまうことがあったのだとしても、やけになって全部放棄してはならない。

より大きな善のために小さな悪を行うことは、道徳的に誤った行いをすることと同じではない。だがそれを言い訳にすればなんでもありになると勘違いしてはならない。そのような行為は十分な思慮の上で行われるべきことである。


・平静を保つ
怒りは自身や他者を傷つけ、焦りは誤った判断をもたらすため、それらは発生させないようにすることが望ましい。そして、怒りや焦りを生じさせないようにするためには、執着を持たないようにすることが重要である。怒りは執着するものが得られなかったときに、焦りは執着するものが得られなくなりそうなときに生じるが、それらはいずれも執着が無ければ生じない。怒りや焦りが生じたときは、それをもたらす原因となっている執着を捨てるべきである。何かを得たいという気持ちがありそれを失いたくないのだとしても、それを執着のレベルにまで高めることは必然ではない。

目の前で何らかの損なわれたくないものが損なわれようとしてるときは、ただより良い手を考えそれを実行することに徹するべきで、そこに執着心を交える必要はない。また、世の中にはどうやっても自分の思い通りにならない状態というのが存在し、その場合はそれでも先ほどの場合と同様により良い手を考えそれを実行しようとし続けるか、あきらめるかのどちらかを選ぶべきであり、執着心を抱いて怒ったり嘆いたりしても苦しむだけで問題が解決されるわけではない。

問題への対処法をそれが起こる前から考えておくと、実際に問題が起きたときに余裕をそこなわずそれに対処することができる。


・執着を捨てる
執着は既にふれたように捨てられるだけ捨てておくべきである。執着は自身の苦しみや他者との衝突を生じさせるため基本的には持たないことが望ましい。とはいえ、執着なしに到達できない領域もあるのかもしれないので、時として執着を持つことは肯定されることもあるかもしれない。その場合はせめて執着の過度化を防ぎ、持つ執着の大きさを最小限にとどめるように努めると良いだろう。


・欲を捨てる
欲を捨てたければ、欲を満たすことを予定せず、欲を満たせる状態でも満たす選択をしないようにすると良い。また、欲を誘発するものにはできるだけ近づかないようにし、日ごろから瞑想をする習慣を持っておくとより徹底的に自身の欲を排除することができる。そこまでした者は欲をほとんどない状態にすることができる。

ただし、少なくとも私自身は、そこまですると楽しくないように感じられるため今後の人生においては、欲を満たすための計画を立ててその実行を目指すようなことには極力抑制的になるようにしつつも、欲を満たせる状態になれば道徳に反さない範囲でそれを満たす程度のことはするつもりである。


・慈悲を持つ
自己を律するうえでは慈悲を持つことも大切である。慈悲については後程より詳しく解説するのでそちらを確認してほしい。


・生活習慣を整える
いくら自身の智慧を磨いた人であっても、心身が不調であると怒りっぽくなり、他者に攻撃を加える恐れが高くなる。従って、正しい在り方をするためには生活習慣を整え心身の健康を保つことが大切である。ただし心身の不調は他者への攻撃を正当化する理由とはならない。


・環境を整える
いくら自身の智慧を磨いた人であっても、多くの問題が自身に降りかかる状況では心の余裕を損ない、怒りによって他者を攻撃する恐れが高くなる。従って、正しい在り方をするためには自己を取り囲む環境をより良いものに保つことが大切である。ただし、環境の改善は無理のない範囲で行うものであり、執着心に基づいて行われるべきではない。また、悪しき環境にいる場合でも自身の内心の努力などを通して不道徳な行いをしないように努めなくてはならない。

 

・考えすぎない
不愉快な出来事について、後で自ら積極的にそれを思い出すことで苦しむ必要はない。また、自身が想起しようとしてないにもかかわらず嫌な記憶が勝手に頭に浮かんでくることがあるのはやむを得ないことであり必ずしも対処する必要はないが、それでもそれをどうにかしたいのであれば、瞑想をしたり他の物事に熱中したりすることでそのことを忘れてしまうようにすると良い。また、その問題のより根本的な解決を目指すのであれば、そもそも不幸を不幸と感じさせる要因となっている執着を破棄したり、慈悲によって自身が不快に感じる出来事に対して不快さを感じないようにしたりすると良い(※1)。

未来に起こるかもしれない不幸に対しては、起きてないうちから苦しむ必要はなく、ただ事前にしておくべき対策をするだけで良い。ただし、未来の不幸への対策は完全に行おうとすると逆に不幸を招くため、ほどほどにするに留めておくべきである。

いくら考えなければ苦しくないといっても、目の前に対処しなくてはならない事象がある場合、それが不快であっても認識し知恵を働かさせざるを得ない。しかし、その場合は、それを不快と感じさせる原因となっている思考を無くすことで対処することができる。

※1:後にも触れるがこれはその出来事を避けようとしないことを意味しない。不快さを感じなくなった出来事であっても、自身や他者の不幸を招いたり自身の信念から避けることを望んだりするのであれば、それを起こさないようにすることは妥当である。


習気(じっけ)と対処法

悟りを開いても脳の構成がいきなりすべて変わるわけではない。従って良くない思考回路は脳に残り続けることになる。仏教ではそのような悟ってなお残る悪しき思考回路は習気と呼ばれている。そして、それがあると、十分な思慮に基づいて判断を下せるときには悟りに基づいたより良い判断を行うことができるが、反射的あるいは衝動的な判断や行動には以前の悪しき習慣が反映されることになる。例えば、何かに嫌悪感を抱き続けてきた場合、悟っていたとしてもなおそれを見るときに自ずと嫌悪感が呼び覚まされる。

その問題に対処したければ、より良い判断や行動を行い続けることで習慣を上塗りし、慈悲によって脳内の悪い結びつきを良い結びつきに置き換えることが必要である。

 

悟ったなどと宣言しない

私には仏教をそれついて語ることが許される程度には理解したという自信があるため、本著にその解説を行う部分を用意することにした。しかしこれは欺瞞にも感じられるかもしれないが私は自身が悟ったなどと主張するつもりはない。何故ならばそうすることは、自身の傲慢さを招きかねないし、何事も100%正しいとは言えないという前提に立つと私の「私は仏教の内容を理解した」という認識もまた誤っている可能性があるからである。以上はあくまで私自身の話であるが、同様の理由で私以外の人間も自身を悟りを開いた者として扱うのはやめたほうが良いだろう。

 

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