世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

仏教真理に基づく倫理

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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悟りと倫理の関係

悟りに関する説明は基本的には十二章で行うが、悟りを踏まえたうえでの道徳あるいは倫理についての考察は文章全体の構成をわかりやすくするために例外的にこの章にまとめることにする。

多くの人は人を殺してはならないという価値観を正しいものと捉えている。しかしその考えへの過信が行き過ぎた者はときに自身の身を守るためにやむを得ず行われる殺人をも否定し始めることになるのである。悟りと呼ばれるそれを得たものはそのように特定の価値観に固執することによる損失を少なくすることができる。

これは私の経験則に過ぎないが言葉に囚われる性質の強い人はある考えを何らかの手段(例えば学術的に肯定されている手段)によって事実と認定した後には、それを支持し続けることが不都合を生じさせることが予見される場合にもその考えに固執しようとする傾向がある。もちろんそれにより生じた不都合がその人に許容不可能なほど大きくなればその人はそれまでに支持していた考えを取り下げ新たな考えを探し始めるだろう。しかし言葉に囚われる性質が強い人ほどその人は自身の考えを改めるまでに多くの不都合を無視することになるのである。そして、このような問題は合理への盲信が存在することによって生じると考えられる。合理を盲信する者は、理論の構築及び修正を行う能力が低いほど、現実に合わせた自身が有する理論の調整を行えず、多くの避けられたはずの損失を生じさせることになるのである。

その問題に対処する方法としては悟りを開くことがあげられる。悟りを得た人は合理への盲信が破壊されているため、自身の持つ既存の理論に囚われることなく現実に合わせた行動をとることができる。そして、それによりその人は特定の立場に固執せずに自身や他者のためになる言動を行うことが容易となるのである。ただし、現在の世界では合理的な説明を求められる場面は多いため、悟りを開いていたのだとしても理論の構築及び修正の能力は高めておいたほうが良い。そうしなければ合理的説明ができないことによる社会からの排除を恐れ、不当な言論をやむを得ず支持せざるを得なくなる場面は増えることになるだろう。

なお、以上の事実は悟った人はいかなる基準をも支持しないということを意味しない。なぜならば何らかの明確な基準を支持するという行為は公平性の確保の観点などから有用なことも多いからである。先述の特定の立場に固執しないという態度は基準を持たないということではなく、基準を持ったうえでその基準を支持することが事前に想定していなかったような不都合を生じさせる場合には無用な抵抗なくその考えを改めることができるということである。また、そのようにある基準に固執しないという態度は、ある考えを自身の利益となり相手の損失となるときには支持し自身の損失となり相手の利益となるときには反対するという立場を取ることを意味しない。そのような所謂ダブルスタンダードとでもいわれるような立場を意図的に取ることは当然道徳的に問題があるので避けるべきである。


絶対的真理の不在と価値観の不安定化の関係

絶対的真理がないことで世界の価値観が全て不安定になるということはない。何故ならば、人やそれを取り囲む環境の今後も長く変わらないであろう性質を元に導き出された倫理観はそう簡単には変わらないからである。例えば殺人や拷問等の行為は、正当防衛や強い脅迫の結果行われた場合などのいくらかの例外を除き基本的には悪とされ続けることになるだろう。

概念上の闘争

学問において人には自由意志がないことが発覚しそれを理由に犯罪者を裁くべきではないという考え方を導き出されたとして、それが実際の世の中で実行されることはない。社会実態を無視した概念闘争上の結論はいずれは是正されることとなるだろう。

如何に道徳的にも論理的にも完全であるかのように見える理論を作り出すことに成功したのだとしても、それが人々に多大な損失をもたらすのであれば人々はそれを支持せず、その理論が社会において実質的効果を持つことはない。しかし逆に人々のためになる理論であれば厳密な論証などなくともそれは現実の社会において用いられるものとなる。


悟りへの誤解

悟りというものはよく誤解される。例えば悟りを誤解したある人は、先ほどの「既存理論に囚われない」ということに囚われ始め、論理的な整合性を重視するべきタイミングにおいてもそれを無視するかもしれない。そして、そのようなことを避けるには実際に悟りを体験することが大切であり、私はそれを体験する方法を後の章で公開するつもりである。だが、もしかすると簡単にはそれを理解できない人も多いかもしれない。もしそうであるのなら、それらの人々はそれを理解するまでの間はとにかく自身が正しいと思う考えが本当に自身や他者を幸福にするためになるかどうかを良く見直すようにすると良いだろう。その結果もし自分の考えに問題があることに気が付いたのであればそれを改めるべきである。

なお、私が本著でしめした各種道徳基準は、私自身の公平性の確保のためのものでもあるが、同時に人々の現実に合わせるための既存理論の是正を手伝うためのものでもある。したがってそれらについて知ることでもある程度の理論暴走抑止の効果を得ることができる。ただし私自身が間違ってる可能性もあるため、それらの情報はあくまで参考程度に留めるべきである。他者の苦痛の程度の評価をする際に判断を謝る可能性は仏教について理解した者にも残る。

 

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