世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

感情等の主観的特性に基づいた道徳

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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感情による判断について

私は自身や他者がその感情を根拠として何らかの政治的主張を行うことを容認する。そもそも私が政治において自身のために行う主張は究極的には全て自分の「苦しみたくない」あるいは「幸せになりたい」という気持ちが理由であり、他者のために行う主張もまた自分の「他者に苦しんでほしくない」あるいは「他者に幸せになってほしい」という気持ちが理由である。もし感情による判断を全面的に悪いものとすれば、わざわざそれらの判断を理性による判断であるかのように取り繕うために労力を割くことになるが、私はそれに意味を見出さない。

ただし感情による判断を認めるという際に問題になるのは自身の感情を根拠にすればどのような言動も正当化できると思う人間がでることである。もちろん私はそのような考えは受け入れないし私以外の人間もそうだろう。人々が自身の感情を理由に主張することを社会が認めるということは、「感情を理由にすればなんでも言っていいということ」や「自身の気持ちに基づいた主張が全て相手に受け入れられるようになること」を意味するわけではない。もし自分が何者かを排除することを自分の感情を理由に正当化したとして、その場合は他者が自分を感情的に排除することも正当化されることは理解しておくべきである。それを防ぐためにもお互いになんでも言えるなどと勘違いせずに、してはならない発言をしないように努めなくてはならない。また、自身が相手の感情に基づいた主張を受け入れないことがあるのと同じように相手も自身の感情に基づいた主張を受け入れないことがあるのは当然の事実である。感情に基づいた主張を行うことが容認されることはその内容が賛同されることと同じではない。

 

感情と理性

感情の肯定が行き過ぎて理性の否定となってはならない。感情のみに基づいた判断は自身や自身に親しい者に偏った判断をすることに繋がり得る。

 

他者の内心の実態は総合的に判断すること

もし多くの人が「赤い色を見ると日常生活に支障をきたすほど不快な反応を生じさせるという先天的性質」を持ち、なおかつ赤という色を禁じることで人々に生じるデメリットが十分に小さい場合には社会に公の場で赤い色を出すことを控えさせようとするルールが作られることになるだろう。しかしある人間の集団が自身の都合を押し通すことだけを考えて、実際にはちょっとしか不快にならないものについてそれが生まれつきの性質により生活に支障をきたすほど不快なものであると偽って主張し始めたときはどうだろう。その人たちの表面の言動だけ見ればそれは規制するべきものとなるかもしれないが、その人たちの内面まで見ればそれは規制するべきではないだろう。しかし我々にそのような嘘を確実に見破ることはできるのだろうか?

私はその問いについては絶対に誤りのないように見分けることはできないと答えるほかないのではないかと思っている。我々はある人が自身の主張を押し通すために内心を誇張したり偽ったりして表現したのだとしてもそれを確実に見抜くことはできないのである。となれば我々は完全が無理であることを承知の上でできる限り正しい判断を行うように努力するしかない。そしてそのためには、その人の発言のみを信じるのではなく他の情報も集めて総合的に判断することが大切である(例えばこれはある発言の内容が事実であるかどうかを判定する際にはその発言を行う者が信用できるかどうかや、どの程度の人数の人間が同じことを言っているのかなどを参考にできるかもしれない。)。その際に参考にする情報はできるだけ恣意的な操作が入りにくいものだとなお良いだろう。ただし、何者かの内心がある特定の状態にあることを信頼性の高い情報によって証明することができなかった場合においても、それはその人の内心がその状態にないことの証明ではないことは理解しておかなくてはならない。


感情に基づいた対立の調整

何らかの感情に基づいた対立がある場合は、お互いに相手に対して「誤解を解くこと」や「妥協を促すこと」を行うと同時に、自分自身も「誤解を改めること」や「妥協することの検討」を行うようにするといいだろう。

例えばあるものについて規制してほしくないと感じる人と規制したいと感じる人が対立しているとしよう。このとき規制したいと思う側の人が、その人にとって本当に規制しなくてはならないものは世界のすべての文字の内「A」だけであるにも関わらず、その人の洞察不足から「アルファベット全て」が絶対に規制しなくてはならないものであると思い込んでいるのであれば、その場合は規制に反対の側は規制をしようとする側に対して規制する必要があるのは「A」だけであることを気づかせることでアルファベット全体の規制を阻止することができる。また、規制の支持者が本当は「A」は危険ではないのに「A」を危険だと誤解してそれを規制しようとしているのであれば、それに対しては「A」が危険でないことを示しすことで規制を控えさせることが可能である。

そして、以上の誤解を解くための努力を行ってなお残る対立については、双方が納得できずにやむをえずどちらかが強制的に自分の意思を通す結果になることもあるが、できる限りお互いの妥協によってそれを解決するべきである。もし、ある選択が特定の集団に小さな利益をもたらす代わりにその他の者に大きな損失をもたらすのであれば、その時は利益を得る側が妥協してその選択をしないようにすることが望まれる。また、逆にある選択が特定の集団に大きな利益をもたらす代わりにその他の者に小さな損失をもたらすのであれば、そのときは損失を被る側が妥協してその選択を受け入れることが望まれる。社会をより平和的に運用するためにはそのように人々がお互いに自制することが必要である。自分だけが一切の妥協をせずに自分の利益だけを追求しようとすることは認められない。

なお後にも触れるが、選択の是非は総合的なメリットとデメリットの大きさのみから測れるものではない。もしそのような判断をした結果あるいはそのような判断を積み重ねた結果、特定の個人や集団に著しい損害がもたらされるのであれば、その判断あるいはそれらの判断を改めなくてはならないこともある。

個人的な信念

私は社会をよくするために残虐な手段を使うことは原則として支持しない。これは単に私自身の感情に基づく判断である。死刑や軽度の精神的拷問あるいはそれに匹敵する手段については、合理的な理由がありそれらを用いることによって生じるメリットが明らかにデメリットを大きく上回る場合には、使用する余地がある(※わずかにメリットが上回る程度でそれらの手段を使うことは、自身の判断に慎重さをもたらすためにも肯定しない)。しかし、私は身体的拷問(傷害、性暴力等)や軽度ではない精神的拷問はどのような理由があろうとも原則として支持しない。もし今後万が一私が政治家を選出する選挙において立候補するようなことがあれば、人々は私がそのような方針を採用することを前提として票を投じるべきである。

以上のように私が個人的な感情に基づいて、合理的な理由があるにもかかわらず特定の手段を支持しない態度をとることは、私が他者に対しても同様に感情に基づく非合理的行動を取ることを認めなくてはならないことを意味するかもしれない。しかし、それに事実の側面があるのだとしても、それが私が他者の感情的で非合理的な判断を無制限に認めなくてはならないことに繋がることはない。何故ならば私は私なりに感情によって合理性を排除する範囲を最低限に抑えるように努めているのであり、そうでない範囲については合理的な考えに基づいて物事を判断しているからである。また、私は自身の以上の信条を盲信の対象とはしていないため、自身がそれに疑いを持つことを禁じていない。従って、私はある程度の他者の非合理的かつ感情的な言動は容認するが、それ以上のものは容認しない。

なお、ここまでの話は人やそれに相当する生物に対してのものであり、医学の発展のための動物実験については、やはり極度になることは認められないものの、身体的苦痛を生じさせるようなものであってもある程度までは許容する。ただし、その際には犠牲となる動物に生じる苦痛の大きさを最小限に抑える努力を徹底的に行うようにするべきである。

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