世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

慈悲と感情の関係

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

kanayamatetsuya.com

仏教には動揺のない状態を目指す教えもあることから、仏教で示される慈悲が心を動かすものである感情を伴わないものであると考える者もいるかもしれない。しかし私にはどうにも感情と切り離された慈悲というのは想定できず、慈悲の根っこの部分には感情があると感じられる。慈悲とは共感によって生じる気持ちであり、共感は必然的に自身の内に感情を生じさせるものである。従って、私は慈悲を感情を伴うものであると捉えている。

私の解釈では慈悲とは、他者の苦しみや幸福への渇望に共感することによって生じる気持ちである。ただし、そのような慈悲を持つ上ではその根にある共感が度の過ぎるものとならないように気をつけなくてはならない。何故ならば、共感が過度であると知性が曇り、かえって人々に多くの不幸をもたらし、人々から幸福を損なわせることになるからである。

また、慈悲の実践のうちにはおそらく現代社会において愛情と称される感情を何者かに抱くことも含まれるが、その場合、慈悲を持つ際に抱かれる愛情は執着を伴うものとならないようにするべきである。執着を伴う愛情も時には持つことを肯定されてもいいかもしれないが、少なくともそれは慈悲ではない。

補足:理性や信念のみによる慈悲もあり得るとする者もいるだろうが、私にはそのような慈悲は長期にわたって持続することはないように思える。

追記:私は慈悲の定義から考えて、慈悲とは共感に基づいて生じる「共感対象の幸福の実現や不幸の解消を望む気持ち」のことであると結論づけていた。しかし実際のところ「慈悲とは執着なき愛情のことであり(※1)、慈悲を持つと自ずとその気持ちの対象である存在の幸福の実現と不幸の解消を願う気持ちが生じ始める」というのが仏教の本来の思想なのかもしれない。私は本当はそのことを検証し検証の結果を踏まえて文章を練りなおすべきなのだろうが、面倒になってしまったので読者が自分でより良い解釈をするようしてほしい。とりあえず本著の内容に関してはいずれも慈悲であるとすることで一貫性はほとんど保たれる。

※1:仏教では愛情と慈悲は区別されるが、愛情の一種として執着のない愛情の存在を認めるので在ればそれは慈悲と同一となるはずである。

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