この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
体罰の禁止
体罰は禁止されるべきである(正当防衛は体罰の内には入らない。ただし、特に非力な子どもに対しては大人に対するとき以上に正当防衛が認められるのは難しいと考えるべきである)。体罰が認められない理由は、体罰という暴力的手段を用いることが、子どもに誤った紛争解決手段を教えることに繋がるからである。法治国家においては、紛争はまずは対話あるいは非暴力的な非協力の態度によって解消が目指されるべきである。また、それでも対処しきれない紛争に対しては放置するか必要に応じて法的な手段を用いることによって対処するべきである。子ども問題行動に対して行うことも、それと同様のものにすることで、正しい紛争解決手段を新たな世代に習得させることが大切である。
子どもが問題行動を起こしたとき理屈ではなく暴力によってそれを改めさせようとすることは、子どもがなぜその問題行動が問題であるのかを理解しないままとなるという点でも問題である。理屈によって改心させられなかった子どもは、親の目につかないところで悪事を働き続ける恐れがある。子どもに真に道徳的な価値観を持たせるためには、その問題行動に対して暴力ではなく理屈による説得や対話によって対処しなくてはならない。
なお、体罰に限らず子どもが怯えるような教育や、暴言や嘲笑などの子どもの尊厳を傷つけるような行為も行うべきではない。何故ならば、それらは体罰と同様の問題を孕んでいたり、そもそもしつけではなく親の八つ当たりが目的である行為に過ぎなかったりするからである。
体罰と犯罪発生件数
日本にはまだ体罰を肯定的に捉える者も多いが、体罰は犯罪率を増加させるため否定するべきである。日本では校内暴力と体罰が社会問題化した1980年代以降体罰を否定する傾向が徐々に強まり続け、2016年には親が行う体罰についても法的に禁止するまでに至っているが、以上の体罰が縮小し続けた期間には若年層の犯罪率は低下し続けていると考えるのが妥当である。何故ならば、法務省によって発表された、令和4年度犯罪白書の「資料3-2:少年による刑法犯 検挙人員・人口比(年齢層別)」において、少年の人口十万人当たりの刑法犯検挙(補導)人員の数は1981年頃(昭和50年代半ば)のピーク以降には長期に渡って減少し続けていることが示されているからである。また、コロナによって外出や外での飲酒が減ったことが一時的な犯罪率の低下をもたらし(これが起きたのは大体2020年から2022年の間)、その低下がなくなる形でコロナ後の犯罪率はいくらか上昇したが、それでも少なくとも2023年までのデータではコロナが広まる前と比べて高い水準になったわけではない。
以上のことから最近日本の治安は悪化しているというものもたくさんいるがそれはデータに基づかない勘違いであるといえる。そのような勘違いが発生する理由は、「マスメディアが今までにない形態の犯罪を大々的に報じる一方で、発生率が低下した犯罪があることについては積極的には報道しないこと」や「SNSの普及により今までには報道されず人々に認知すらされなかったような行為が社会全体に広まるようになったこと」にあると思われる。
余談:日本において最近強制性交罪がより広い範囲の行為を禁止する不同意性交罪に変更されたため、この先性暴力犯罪の件数自体は増加するかもしれないが、当然それは若者自体の性犯罪率が上がったことを意味しない。今後、実際に性暴力事件が増加したかどうかは、その増加が一段落ついたタイミングから再度測りなおすと良いのではなかろうか。万が一何らかの要因でその増加が継続的に増え続ける場合は、専門家がそれが実際の治安の悪化を意味するのかどうかを分析する手法を開発しておくべきであり、犯罪に関する統計の取り方もそれに備えたものとしておくことが望ましい。
非暴力的教育の手法
体罰なしでうまく教育を行う方法が分からない親や教師も存在するので、社会や政府は体罰なしの教育方法を社会全体に広める努力をしなくてはならない。
言論による子どもの自発的変容の促進
私は問題を起こした子どもを言論によって変える際の方針には、「他者を思いやる心を想起させること」と「利害から説得すること」の二つがあると考える。
一番の理想は、良からぬことをしようとする子どもが自らの良心によってそれを改めることである。それができれば、その子どもは社会的な圧力がなく自身の利益にもならないような場合にも、正しい行いをするようになる。従って他者に害を与えようとする子どもに対しては、まず親が害を与えられた存在の苦しみを子どもに想像させるようにすることで、その行動を改めさせるべきである。
そして、次に重要なのは、子どもが自身の利益のために正しい行いを行うようにすることである。人は常に他者を思いやる心を容易に持てるとは限らないが、その心が揺らいだ場合にも自身の利益となるのであれば正しいことを行うことができる。従って、子どもの行動の正しさをより確実なものとしたいのであれば、子どもに正しいことを行う戦略的な理由についても教えておくことが望ましい。
ちなみに、利害からの説得は「自身が悪い行いをすれば、他人の悪い行いを止めることも難しくなる」ということを説得対象に教えることなどで達せられる。なぜ自身の悪行が他人の悪行を招くのかというと、自身が悪いことをするときに、他者が自分だけ悪いことをしないようにする理由はないからである。例えば、ある二人がお互いに相手を殴るのを辞める約束をしてそれを守るのであれば、お互いに殴られないというメリットが発生することになる。だからこそその二人にはそれぞれその約束を守ろうとする理由がある。しかし、そこで片方が裏切って相手を殴るのを辞めない時には、もう片方も相手を殴るのを辞めることはなくなる。何故ならば、自分だけが相手を殴るのを辞めても、自分が殴られないというメリットは得られないからである。従って、お互いに相手を殴らないという約束をしてそれを守りあう状態を作りたければ、自分自身がその約束を守ることが大切である。なお、実際には、自分がその約束を破ったとしても相手が良心から自分だけは約束を守り続けようとすることは在るかもしれないが、その場合も相手が約束を守らない確率は上がったのだということは理解しておくべきである。また、現実の社会には二人ではなくたくさんの人がいるのであり、ある人が自分だけ良くないことをしたとしても、他の人はそれ以外の人のためにまだ自分が良くないことをするのはやめようとすることになる可能性が高い。だが、その場合もやはり自分が悪いことをすることで、より多くの人が悪事を働くことは促進されることから、やはり悪事を働くことはやめたほうが良いだろう。
なお、どうしても以上の理屈だけでは利害からの説得ができないのであれば、「悪いことをすれば社会的な制裁を受けるということ」を教えるようにすればいい。現実の社会では、自分だけ悪いことをしようとする人が出ることのないように法律が整備されているし、法律に引っかからなくても悪事を働いた者はその分社会の人々の協力を得ることが難しくなる。だからこそ、誰かが悪いことをしないようにすることはその人自身のためになるのである。また、人を不幸にする方法でしか幸福になれないと思い込んでいる者に対しては、それ以外のずっと安全に幸せになれる方法を示すことで対処するべきである。
罰による統制
子どもに罰を与えることは子どもの本心からの変容をもたらさないため理想的とは言えない。そのことから罰という手段を全面的に否定する教育者も中に入るようだ。しかし、私は今後統計データなどを元に考えを改める可能性はないわけではないが、現状は罰を与えることは絶対的に否定しなくてはならないようなものではないと考えている。確かに、教育の専門家や天才的な知性を持つ親であれば、子どもに説得力のある理屈を示すことのみによってその問題行動を防げるかもしれない。だが、全ての親にそのような力があるわけではないし生得的にわがままな傾向の強い子どももときにはいるため、場合によっては子どもに説得力のある理屈を示すのではなく罰を与えることで、その問題行動を防がなくてはならないこともあるはずである。
とはいえ、当然罰という強制力ある手段を使うことには十分に慎重になるべきである。親や教育者は子どもに罰を与えるというのは最終的な手段であることをよく理解し、基本的には理屈と対話によって子どもの起こす問題に対処するようにしなくてはならない。特に重い罰はよっぽどのことがない限りは使わないようにするべきである。そもそも親や教育者自身の道徳観というのが正しいとは限らないため、強制的な手段というのを安易に使えば、むしろ逆に子どもに悪行を強制することに繋がる恐れがある。特に子どもを説得力のある理屈を呈示できていないのであればその可能性はなおさら高まることになる。従って、子どもに罰を与えるのは、明らかに子どもの行為が間違っている場合もしくは緊急性の高い場面かつ、言葉だけでは変わってくれないときに限定することが望ましい。そして、説得力ある理屈なしで罰を与える場合にも、一応は罰を与える原因となった行為によって生じる教育者自身あるいは他者の苦しみをその罰を与える理由として提示するぐらいはしておいた方が良い。
また、子どもに与える罰の内容は、非暴力的な内容に限定するべきである。既にふれた通り体罰には大きな問題があり、後に触れるように犯罪率の上昇を招くため、その手段は絶対に使わないつもりでいなくてはならない。更には、親が子どもをその同意なく産んだ以上は親が子どもを成人するまで育てるのは当然のことであり、生命と健康を維持するために必要なご飯を与えないというのは罰として認められない。子どもは自制心の強さなど様々な点で大人と違いがあるため、大人が他の大人に対して行うのとは違った形の罰を与えることがあること自体は容認される(※1)。しかし、子どもの望みに本当に反する罰についてはできる限り与えないようにするべきである。
子どもに罰を与えるのであれば、それは暴力的でも侮辱的でもなく、対象を怯えさせない範囲のものにしなくてはならない。具体的には、軽度な罰の例としては、特定のおもちゃやゲームを買い与えるのを延期する、おやつのグレードを下げる、お小遣いを減額するなどがあげられる。比較的重たい罰としては、ゲームを一定期間封印したり、楽しみにしていた旅行を注したりすることが考えられる。子どもが自身の態度を変えるまでしつこく説得を行うこともまた実質的な罰として機能するかもしれない。
ちなみに、罰ばかりでなくご褒美を与えることによっても子どもの行動を統制することは可能である。その方法は悪いことをさせないためというよりは(※2)、どうしても子どもが自身や社会のためにやらなくてはならない勉強をやらないときなどに採用する余地がある。もちろんそれは内心の好奇心を促進するものではないが、本当に子どもが何も勉強しないようなときには最終手段としてそうすることを検討する価値はあるだろう。
※1:一時的なゲームの禁止等がそれに該当する。大人同士では相手に対してゲームの禁止など行わない。
※2:悪いことをしなかった子どもにご褒美を与えることが望ましくないのは、うっかり子どもがご褒美を得るためにあえて悪いことをしようとし始めると損失が大きいからである。子どもが悪いことをしないことで得られるのは精々賞賛に留めたほうが良い。なお、子どもが労力をかけて正しい行いをしたときにいたわりとして何かを与えることは問題ない。
法的制裁
言論と罰の付与の二種の手段をいくら行っても子どもの法律に反するような行為を防げなかった場合は、その原因が病気でない場合には法的な制裁によって対処するしかない。親としては心苦しいだろうが、子どもが大きな罪を犯したのであれば、愛情を伝えつつも警察に突き出すべきである(その社会の法制度が、明らかに罪に見合わない罰を与えるものだったり、残虐な罰を与えることを肯定するものである場合はその限りではない。その場合は社会や被害者に誠意があると認められないことを覚悟で別の手段での償いをさせるべきである)。どうしても子どもが法的に制裁されることを防ぎたいのであれば、子ども自身が変わるまで必死に子どもを説得するか、子どもが非行に走る原因となっている自身の問題を改めるようにするしかない。
体罰を行う親の扱い
体罰の禁止は親を追い詰めることを目的としたものではない。特に体罰が悪しきものであることを認知することが困難な状態にあった親が子どもへ体罰を行った場合に、その人を直ちに子供への愛情がない人間であると決めつけるようなことは差し控えるべきである。体罰の風潮が色濃く残る社会において、親が自力でそれが不適切であることに気が付くことは難しい。ただし、現在体罰を行っている親は体罰が不適切であることを知ったのであれば直ちにそれを停止しなくてはならない。
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