世界平和実現構想+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

無分別の世界

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

kanayamatetsuya.com

私の知る限りでは無分別の状態に至れるようになることが禅の核心である。私は分別の世界が作らなければ存在しないということを体現することで無分別の状態に至ることに成功した。無分別の状態とは一切の分別すなわち思考をやめた状態であり、思考を手放した状態といえる。無分別に至るに伴って衝撃的な体験をするわけではない。誰しも日ごろから接している世界である。それはさほど特別な状態ではない。しかし無分別である間は思考によって生じる苦痛から解放される。思考によって誘発される執着や欲なども消失することになる。

無分別の世界を無分別の世界と認識しているとき、そこには分別が存在する。本当に無分別ならそれを無分別の世界とすら認識しない。自分が無分別になったと感じている状態は本当は無分別ではない。無分別の状態では当然分別による世界の認識は消失する。そして無分別の状態のままで何かを分析することはできない。分析を始めた時点で無分別ではない。無分別を無分別と解釈するのは分別を使用している時のことである。無分別の状態では何かを理解するということがない。

無分別の状態では意識が消失するわけではない。しかし、あらゆる概念は消失しているので、意識を意識と認識することはない。また、その状態では(おそらく)時間経過の感覚などは存在しない。その感覚は思考と何らかの時間とは関係のない肉体感覚の結びつくことにより生じるのであり、思考がなければ存在しない。その点は私という存在の感覚と同じといえる。また、無分別の状態では何事についてもあるということもないということもない。

ただし、私は無分別に至ったとは言ったが、実のところ完全な無分別など無理だと考える。おそらく雑念を一切生じさせなくすることも無意識下の分別を完全に消すことも不可能である。また、痛みが生じたときなどはどうしても痛みを分別で認識せざるを得ないだろう。しかし一度分別を手放す力を身に着ければ、自分の身に危険の及ばない閉じた空間においてはおおむね無分別にとどまり続けることができるようになる。例えば出家したときなどに無分別で暮らそうと思えばそのようにいられるだろう。

だが、無分別である間は思考を停止した状態であるがゆえに複雑な行動をすることはできない(※その状態でも無意識的な行動は可能かもしれない)。したがって日常生活を営むためには無分別の世界を離れ分別の世界に戻らなければならない。それは結局のところ無分別の状態にはとどまれないということである。確かに無分別であれば思考の苦しみから解放されるのかもしれないが、その状態を維持していては生きていくことはできないのだ。では結局無分別でいられないのであれば、無分別に至ることは無意味なのかと言われるとそうではない。無分別に至ることに成功した人はそれまでに思考を手放す力を身に着けているので、それ以降は分別の世界においても余計な分別を捨てることができるようになるのである。

 

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