世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

公案とは何か、そのメカニズムの分析

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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公案とは

公案は思考による解決が不可能な問題である。そのような問題について答えがでるまで考え続けることで、やがては思考という行為への囚われから脱することができるのである。公案の答えは直観的に把握される。考えるのをやめたらいいという考えは答えではない。答えが分からないというのも答えではない。

公案の答えを手に入れるとそれ以降不要な思考がどんどん離散していくかのような状態になる。公案の答えがわかれば、他人に答え合わせをしてもらわなくてもその事実が明確にわかる。公案に取り組む際はその答えは必ずあると思いながらそれに取り組むこと、そしてその答えを出すために様々な工夫を行うことが大切である。公案の答えは実際に存在する。しかし事前に予測したいかなる答えとも違った性質のものである。

補足:公案に取り組む人がこれが答えだと思った場合、実際にはそれは間違いである。その人は分別により何らかの答えを出そうとしてしまう性質を断つことができていない。沈黙が答えなどと認識あるいは表現した時も「沈黙が答え」という分別を用いているのでそれは間違いである。何らかのイメージをもってこれが答えと考えたときそのイメージもまた言葉の答えである。公案の答えそのものはいかなるイメージとも結びつくものではない。

公案の例

江戸時代中期(1700年前後)の禅僧である白隠慧鶴は「両手を打ち合わせると音がするが、片手の場合ではどんな音がするのかを答えよ」という公案を作り出した。公案に興味のあるものは試しにそれに取り組んでみてはどうだろうか。あるいは私の公案に関する解説を読んだうえで公案の答えとは何かということについて考えるのも良いかもしれない。

公案のメカニズムに関する考察

※以下は私の個人的な予想であり正しいことが保証された内容ではない

公案の答えを絶対に手に入れるつもりでそれについて考え続ける人は、考えるのをやめるという選択をすることができない。しかし公案は論理的に解決が不可能な問題でありいくら時間をかけてそれに取り組んでも答えが出ることはないため、公案について考え続ける人はやがて思考のすべての方向に行き詰まって「答えは分からない」という答えまで含めていかなる答えを出すこともできない状態に陥る(※1)。そして、そのように考え続けることも考えるのをやめることもできなくなった脳は判断を強制的に停止させられ、図らずしてそこには精神的な平穏が訪れることになる。するとその人は問題に対する向き合い方として思考によって結論を出す以外のありかたを知ることになり、それが公案の答えだったことに気が付くのである。

※1:思考の行き詰まりというのは、真に洞察が行き詰まったことが確定しない状況においても、「新方向の思考→失敗」が無数に繰り返されることで経験的に思考による問題解決の無意味さを自覚させられることで起こる。

 

公案は必須かどうか

私が思うに仏教の真理を会得するにあたって公案の解を得ることは必須ではない。確かに公案により思考への盲信をもたらす価値観への固執は破棄される。しかし、無分別の悟りはそれを含めた全価値観への固執を破棄するのであり、その悟りを得れば公案によって得られる。

公案の答えを知る人はさほど珍しくない

公案の答えを得た人は歴史的に見ると世界の各地において数多く発生していたと思われる(現在の世界においてもその総人口から考えればかなりの人数が誰に言われずともその答えを把握しているだろう)。そしてそれが現在まで明確に伝えられていないのは、その答えを得た人がその経験自体を特別視しなかったか、他者にそれを伝えようとしても説得力のある形で説明することができなかったからと考えられる。

公案成立過程についての予想

最初の公案は、多分難しい理論ではなく単に無理難題について弟子に考えさせればそのうち勝手に弟子が真実に気づくだろうという楽観的な予測に基づいて、作られたのではないかと思う。根拠は単に私の勘である。

更なる公案

禅には公案を説いた後、更に依然として残る思い込みを破棄するための公案もあるらしい。しかし、それを解くことで至れるのはどこまでも近似にすぎず、多数の公案をこなすことには多くの時間が消費されるというデメリットがある。そのため、私は最初の公案の答えこそ悟るための正しいアプローチを知るためにも積極的に得る価値があるが、逆にそれさえ得ていればあとは最初からその他の思い込みを根こそぎ捨てることを目指した方がいいのではないかと考えている。

 

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