この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
※ここで言う欲には快楽を求めるような欲(性欲や食欲など)ばかりではなく、痛みや苦しみを回避したいという気持ちも含むものとする。
欲もまた、それが満たされない状態は不快に感じられるものである。しかし残念ながら思考を手放せるようになり、さらに執着の放棄を選択したのだとしても欲が消えるわけではない。欲はどうやっても消しきれないのである。だが思考を捨てられるようになると執着は消せる一方で欲は消せないのはなぜだろうか。私にはそれらの問いの確実な答えは分からないが、私はその原因は思考によって生み出されるものであるかそうでないかの差にあると考えている。おそらく執着はその対象となる「何か」を認識していなければ生まれないものなのだろう。だからこそ、思考を手放せるのであれば執着も手放せるのである。一方で、欲は思考がない場合にも現れるものである。例えば食べ物を長い時間食べなければ思考の作用に関わらず食欲というものは湧いてくることになるだろう。従って、思考を消せるようになったとしても欲を消しきることはできないのである。
とはいえ、思考によって誘発される欲があるのも事実である。例えば私はあるとき中学生の頃に楽しんでいたゲームについて思い出していたのだが、その後再びそのゲームを遊びたいという欲が猛烈に湧いてきたのである。私はこのように思考により生じる欲については、後に紹介する瞑想により言語の生成を妨げることで抑えることができると考えている。ただしそのような欲を抑えたい場合はそれが生じる前あるいはそれが発生してまだ間もない段階で、欲をもたらす思考を断つ必要がある。欲はは強くなってからでは消すのが難しい。おいしいものが目の前にあったとしよう。それを認識しなかった場合それに対する欲は発生しない。しかしそれを認識してしまった場合はそれに触発されて食欲が発生する。そして食欲が発生した後にそれを見なかったことにしようとしても遅いのだ。一度発生した欲は分別を捨てることを妨げる。だから欲を抑えたければ、欲が生じる前あるいは欲が発生した直後のそれがまだ弱いうちにその認識を絶たなければならない。その力をつけるために瞑想をするのである。(補足:十牛図の8や9の段階を経ても瞑想をせずに思考を使う生き方を選ぶのであれば、突発的な欲の発生を抑制するのは難しい。そして先述の通り一度欲が発生してしまえば、その後それを手放すのは用意ではなくなる。従って悟りを得たものであっても欲を抑えたければ瞑想をして欲の発生を事前に防ぐようにした方が良い。)
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