この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
欲とは何かを求める気持ちのことである(執着を欲の一種であるとみなしてもいいが、以降では便宜上それらを別のものとして扱う)。その内には快楽を求めるような気持ちだけでなく、痛みや苦しみから逃れることを求める気持ちも含まれる。欲と執着の違いは、欲求にその対象を捨てることを悪とする思考が付随するかどうかである。それが付随しない欲求は欲であるが、それが付随する欲求は執着である。ただし、欲と執着の境界線は明白なものではなく、付随する思考の量や強度が軽微である欲求は、執着といえるほどのものではない。
執着は捨てることを本心から目的とすることが困難である。何故ならば執着を有する人は、その脳に執着の破棄を阻害する多数の思考が根差しているからである。しかし、それらの思考を根こそぎ捨てることができる人は、それらの思考を無視して執着を捨てるあるいはそれを単なる欲に戻すことができる(もっともそれは執着を捨てられるというだけのことであって、実際にそれを捨てる選択をするかどうかは各個人の判断によって変わる)。それに対して、欲は捨てることを本心から目的とすることができる。何故ならばそれを捨てることを悪とする思考がまだ存在しないからである。ただし、欲はそれを捨てることを目的とした場合にも容易に捨てられるとは限らない。何故ならば、欲はそれを誘発するものが近くにあったり身体がそれを誘発する状態にあったりすると、一度静めることができたのだとしてもすぐにまた再生成されるからである。
欲もまた、それが満たされない状態は不快に感じられるものである。しかし残念ながら思考を手放せるようになり、さらに執着の放棄を選択したのだとしても欲を完全に消すことは不可能である。何故ならば、欲の内には極度の空腹時に生じる食欲や自身に強い痛みがあるときに生じるそれから逃れることを求める気持ちのように本能によって非常に強力に生み出されるものがあり、それらを無くすことはごく一部の例外はあるかもしれないが基本的には本能によって妨げられるからである。従って完全に無欲であろうとすることは、無駄に労力を消費し、逆に苦しみを発生させることに繋がるためやめたほうが良い。
ただし、無くそうとすれば無くせる欲があるのも事実であり、それらの欲については悪しきものであれば抑える努力をする価値がある。例えば、私は欲というのも思考(欲を誘発する物事の認知)によって生じるものであると解釈しているが、それが事実であればそれは後に紹介する言語の生成を抑制する瞑想をすれば抑えられるはずである。何故ならば、そのような瞑想をすれば、欲を誘発する物が近くにあってもそれが頭から離れなくなり、それによって欲がいつまでも心に残り続けることは少なくなるからである。また、瞑想以外にも、普段から欲を誘発する物には近づかないようにするという方法によりその発生は抑えられると考えられる。何故ならば、そのようにすれば、欲を生じさせる思考回路が強化されることを防げるからである。ただし、以上の方法を試しても完璧に欲に対処できるわけではないため、最終的には不適切な欲に対してはそれにのまれた場合に生じる損失を理性によって意識することであらがうしかない。
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