世界平和実現構想+α

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【老荘思想】道(タオ)と概念の生成

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

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老子の思想

私は東洋思想について学び始めた。最初に学んだのは老子の思想だった。老子の思想では道(タオ)という概念が説明されていた。老子によればそれは特定の形を持たずいかなる言葉でも言い表せないものであり、老子はそれをやむを得ず用いられる仮の表現として道と呼んでいたようである。また、老子は「無名の状態こそが万物の始まりであり、万物はそこに名をつけることによって生じるものである」とも述べている。これは分かりやすさを優先し老子本来の意図からいくらか乖離した説明をするのであれば、ものは人が本来何の境界線もないところにそれを引くことによって作り出されるということである(※1)。例えば、太陽や月も人がそれを囲むように境界線を引いて周囲と区別して初めて生じるのであり、逆にそうしなければそれらはただの空の一部であり背景の一部である。

そうはいっても人が線を引かなくても境界線はあるではないかと思う人もいるかもしれない。実際に月と暗い夜空は色が違っているので間に線があるかのように見える。しかし、そのように自然に境界線があるかのように見えたとしてもそれだけでは概念にならない。例えばここに英語の「R」がある。だがほとんどの人はその内部にある空白の部分に名前などつけていないだろう。RはあってもRの内部の空間についてはその他の部分との間に線があるにも関わらずそれに名前を付けて概念化するようなことはしていなかったのである。このように、自然界に境界線があるだけではものは生じない。ものは人が自ら区別のために境界線作り出して初めて生じるのである。

分かりづらかった人のためにもう一つ例を出そう。貴方は今無数のタイルでできた道を見ているとする。そしてそのタイルはすべて同じ大きさ、同じ色の正方形である。そのときのあなたはタイル4つの集まりには着目していないはずだ。しかしここでそのタイルが四つ集まったものを「ZEN2」と名付けたとしよう。するとそこには突然先ほどまでは存在しなかった「ZEN2」というものがたくさんあることになるのである。人はこのように新たな区別を作り出して名前を与えることで、新しいものを自由に作りだすことができるのである。ちなみに、仏教においてはこのように区別を作って世界を認識することを「分別」という。この語は後に頻繁に用いるので覚えておいてほしい。


以上のことから物あるいは概念は、人が区別を作り出して初めて生まれるものであると言える。そして区別により生じたものに名を付ける(区別されたものに音や文字等のまとまりを結び付ける)のは、そうしなければ脳内の洞察においてそのものを扱うことが困難となるからである。また、これは私個人の予想だが、人の持つ能力は今まさに見ているものから一部を切り取ってそれを概念にする能力だけではない。人は多くの記憶から共通点を抜き出してそれを概念にする能力も持っていると思われる。
 

ところで概念になるものとならないものの差はいったいどこにあるのだろうか。これについても老子の見解が参考になる。老子によれば「無欲に徹する人は区別が生じる前の世界を見る。有欲に徹する人は区別が生じた後の世界を見る。」とのことである。この言葉からは分別が人の利益を求める心の影響をうけて作られていることがうかがえる。

例えば、我々は木になるりんごを特別他の部分と区別をして「りんご」という名称を付けている。しかし木の葉っぱの先端から半分の位置までの部分には何の名称もないはずだ。それはいったいなぜだろうか。それはその部分に着目する価値がないからである。そこに名称を付けたところで我々には特にメリットがないので、その部分は無名のままなのである。しかし一方でりんごには「りんご」という名称がつけられている。これはいったいなぜだろうか。それは「りんご」の部分には特別着目する価値があるからである。「りんご」という概念を知っていれば、それにより「りんごを取りに行く」と考えることができるのである。人はこのように世界に区別をつける価値があるときに区別を作り、そしてそれに名前を付けて概念として思考操作において取り扱いやすいようにしているのである。

※1私が調べた範囲では老子は「ものは名の無い世界に名をつけることで生まれる」ということについては言っているが、「ものは線のない世界に境界線を引くことで生まれる」ということまでは言っていない。しかし名をつけるということをより詳しく説明しようとするのであれば、必然的に境界線を引く段階について触れることが必要となるためまずはそのことから解説した。

荘子の思想

私は以上の老子の思想を調べた後に荘子からも道について学ぶことにした。荘子は老子の思想と非常に似通った思想家であり、そのためにその二者の思想は老荘思想という名称でまとめて取り扱われることが多い。そしてその荘子の著書の中には、混沌の比喩というものがある。その内容は"混沌という名の帝が、南海の帝と北海の帝を手厚くもてなした。すると南海の帝と北海の帝は混沌の恩に報いることを相談して、「人には目、耳、口、鼻の7つの穴があり、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりして楽しんでいる。しかし混沌にはそれがない。だからお礼に穴をあけてあげよう」と言った。そして一日に一つずつ穴をあけていくと、7日目には混沌は死んでしまった。"というものである。私はこれを老子と荘子の思想が共通しているという事前の情報から道を言い表したものであると解釈した。どうやら道は説明すると死ぬらしい。私は道を言い表せないものであるということを荘子の思想によってふたたび確認した。

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