この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
私はその体験の後無敵になったかのような気分になった。私はこの時点ではまだ仏教について詳しく調べていなかったのだが、偶然にも仏教で言われる悟りを得たのだと誤解した。仏教の教えには無我というものがあるが、それを観測対象の中のどこにも私がいないことなのだと曲解して、この無敵感はおそらく仏教の教えの核心なのだろうと思い込んだ。何があっても観測者である私が苦しむことはない。苦しみという現象が生じてもそれは私の観測対象内で起きていることである。確かにそれでも痛みが発生したら苦しいことに変わりはないのだが、私は世界の真理として自分の本体が苦しむことはないのだと思えるようになった。そう考えると根本的な安心感を得たつもりになることができた。仮に記憶が消えてこの経験を忘れたとしても自分の本体に被害が出ることはないのだ。今後私に何があったとしても真の私は害されない。そして同時に私以外の人間もこの事実に気づかずともその観測者としての本体が傷つくわけではないのだと考えた。仏教には全ての人はもともと悟っていて、あとはそれに気づくだけであるという考え方もあるが、その時の私はそれはそのことを意味していたのだと理解した。私と同じ体験をせずとも人の本体である観測者が傷つくなどないのだ。
しかししばらくして無敵感は消失した。私はあるとき嫌なニュースを見た。そして非常に不愉快な気持ちになり怒りに呑まれ始めた。私の怒りは大きく膨らみ私自身が悪人であることも忘れ、報復としてその事件の加害者を徹底的に攻撃してやりたくなったのだ。私の精神は大きく動揺し、落ち着きや幸福とは程遠いものであった。そこで私は自身が精神的になんの成長もしていないことに気が付いた。観測者である私が傷つかないという考えでは何ら精神的な余裕は得られなかったのである。そして私はさらに自身の見解にも疑念を抱くようになった。そもそも見ることもできない観測者は本当に必要なのだろうか。観測者がいるというのは思い込みで、この世界には観測対象しか存在しないのではないか。あるいは観測対象と観測者は同じ存在であるということもありうる。意識の世界は見られるものであると同時に見る者でもあるのかもしれない。それはつまり目の前に映る景色も耳に入る音も観測対象であるが、それらは同時に観測者でもあるということだ。そう考えると観測者である私は私の見るすべてのものに覆いかぶさるように存在していることになる。目の前にうんこが落ちていたらそれは私だ。私はそのような疑念が生まれるようになったことで、観測者に害が及ぶことはないという考えに納得ができなくなっていった。
私は結局何も変わっていないことを認めざるを得なくなった。自分自身に自分の本体は傷つかないのだと言い聞かせて自分は悟ったのだと納得しようとした。しかしそれもうまくいかない。私に現れる精神的動揺と私に関する見解への疑念がその納得を破壊した。私は精神的な平穏も納得のいく真理も手に入れていなかった。そして何も得ていないことに気が付いた私は、仏教の悟りを得るためにも私について再び考察を開始した。その時の私は仏教では悟るためには私とは何かということについて理解すればいいのだという情報を握っていた。そして仏教の悟りを手に入れると苦しみから解放されるのだということを知っていた。私は苦しみから解放されるために私という存在について考え始めた。
観測者がいないのなら私はいったい何者なのだろうか。私はすでに私の観測対象のすべてが私以外の存在になる状態を知っている。観測対象の中に私といえるものなどなかった。しかし観測者も実在しないなら私はどこにもいないということになるのだ。私がどこにもいないのなら当然私が傷つくことはあり得ない。仏教の無我という教えは、それはこのことを指しているのだろうか。いやしかし観測対象と観測者が同一で、観測対象のすべてが同時に私であるという考えが否定されたわけではなかった。もしそうであるのなら私が存在しないことを理由に私が傷つくことはないと考えることはできない。したがってやはり私は私が傷つかない存在なのだと断言することはできなかった。
私はさらにここで老荘思想を思い出した。老荘思想によればものは分別して初めて生じるのである。もしそうであれば、観測者も観測対象も区別を作らなければ存在しないはずである。もしかすると観測対象も観測者も作らなければ存在せず、ただ意識だけがあるのかもしれない。だがそのような認識を持ったところで苦しみがなくなることはない。これもまたおそらく答えではないのだろう(少なくとも当時はそう認識した)。
そして私はその後も考え続けたが、最終的には行き詰る。どう考えても答えなど分かりそうにない。しかし悟りというものが仏教で長い間説かれている以上は必ず答えがあり、それは人に理解しうるものであるはずだ。今の私のように精神的な成長もなければ私というものへの答えもしらない状態が悟った状態であるわけがないのだ。悟りとは何か、私とは何かという問いについて、答えは必ずあるはずだ。それを知れば自分は苦しみから解放されるはずだ。
私は考えることをやめられなかった。私は他にするべきことがあったのだがそれには手がつけられなかった。私は私というものや悟りというものへの考察に囚われ続けた。私は答えが分かるのか分からないのかも分からなかった。考えることをやめていいのかやめてはならないのかも分からなかった。私は何をしたらいいのか分からなかった。それでも考えることをやめることができなかった。
そして奇妙な体験をしてから数日ほど経過したころ、私はついにある答えを直感した。それは今までのどんな解答とも質の違う答えだった。私はとうとう答えを得たのだと確信した。誰に確認せずともそれが答えであることは明らかであった。それ以降の私はそれ以前の私にはなかったものごとのとらえ方を手に入れた。その変化はその後覆ることはなかった(※これは必ずしもその変化を覆すことができないということを意味しないが、そうするためには地動説が正しいことが明らかとなった現在において天動説を信じようとするのと同じような努力が必要となるだろう)。
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