世界の基礎+α

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ヤージュニャワルキヤの思想と超やばい体験

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

kanayamatetsuya.com

私は老荘思想を学び終えると今度は仏教を含む古代インド哲学について学び始めた。そこで私が最初に学んだのはヤージュニャヴァルキヤの思想だった。ヤージュニャヴァルキヤは古代インドの思想家である。私にはその思想を十分に理解することはできなかったが、「私とは認識するものである」「私とはこれは私ではないといういい方でしか表せない存在である」という情報がまず頭に入ってきた。私はそこからヤージュニャヴァルキヤはいったい何を言いたかったのかを考察しはじめた。

そしてあるとき私は私が観測者であるという事実を意識的に確認することにした。私はそこで非常に神秘的な体験をすることになった。あるとき私は私が観測者であることを確認した。確かに私は世界を見ている存在である。目の前にある机を見ているのは私であり、私の耳に入る音を聞いているのも私である。私は私の内部にあり、周囲のものを観察していた。そして次に周囲のものが観測対象であり私自身ではないことを確認した。私の目の前に映る机は当然私自身ではない。それが壊れても私が壊れたことにはならない。耳に入る音も私自身ではない。音がしていたとしてその音が私自身であるということはないのだ。

そして同じように今度は私の思考や意思が私の観測対象であることを確認する。私は私の意志や思考を観察していた。それもまた観測者である私自身ではなく観測対象である私以外の存在なのかもしれない。私が衝撃的な体験をしたのはそのようなことを考えていた時であった。あるとき私に世界から切り離されたかのような衝撃が発生する。その時私の思考や意思は私ではなくなった。おそらく意思や思考が私という自覚の対象から外れたのだ。私は浮遊感とでも言うべき感覚に包まれ、離人症というものにでもなったのではないかと錯覚した。そして私の思考は勝手に動き始める。勝手に動き始めたというのは意思によらず動き始めたということではない。確かに意志によって思考が行われていたが、しかしその意思もまた私ではなかった。私の意志も思考も観測者である私によらずに動いていたのだ。私はただそこでそれを見ているだけだった。それは今までに経験したことのない現象だった。

そのときの私が観測したものはすべてが観測対象と化した。私の周りの世界、私の体の奥の感覚、私の意志、感情、思考、それらのすべてが観測対象だった。どこを見ても私はいなかった。私という存在を観測しようとして何かを観測した瞬間それは観測対象となり観測者である私とは違う存在となった。今まで私であると認識していた体内にある感覚は観測対象に過ぎなかった。私の見た者のすべてが観測対象であり私ではなかったのだ。その時点までの私は、私が私を認識しているという考えに疑念を持っていなかった。以前の私にとって、私を認識するということは観測者である私が観測者である私を観測することであった。だがヤージュニャヴァルキヤの思想を元にこの神秘的な体験をしてしばらくの間は、私が観測したすべてのものは観測対象であり、観測者である私は観測できないのだと考えるようになった。また、その時の私は「思考が私の一部であるかのようにとらえていたのは勘違いだった」とも考えた。意思や思考は私の観測対象であり私自身とは別の存在であり、わざわざ目の前に映る景色や耳に入る音と区別してそれを自分と同一視する必要はなかったのだ。このとき経験した感覚は数十分程度持続した後消滅した。

後に知ることだがこの体験は特に仏教の教えとは関係のないものであり、私が調べた限りでは仏教を理解したい者は特にこれを体験することを目指す必要はないようだ。実際に今の私からしても仏教探究の上では特にこの体験が必須ということはなく、こんな経験を繰り返したところで頭がおかしくなるだけであるかのように思われる。以上のエピソードは私が悟りを得る過程で経験した主要な体験を全て紹介する気が合ったからそのようにしただけであり、この本の読者がそれを真似しようとする必要はない。しかし一方で衝撃体験そのものは不要だとしても、自身の意志や思考が観測者である自身とは別の存在であるという認識は持ってみる価値があるものかもしれない。その考え方は悟る過程で役に立つ可能性はある。

 

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