この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
悟りを目指すにあたっての心構え
悟りという語の意味の再確認
悟りとは仏教で示される真理への気づきであり、それはこの章の冒頭で触れた「思考を手放せるようになるための気づき」でもある。悟りを徹底するまで開けば、涅槃に至り、タオを捉えられるようになる。
気軽に取り組むこと
本著では仏教の真理を会得することを悟りと称しているが、それは私の仏教に関する解説が禅の従来の思想に大きく影響を受けたものだからである。しかし、実のところその語は何か仰々しいイメージを伴い人々に事実についての誤解を生じさせる恐れがあるため、それを使うことは好ましくないのかもしれない(本当は本著の悟りという表現をもっと接しやすいものに書き直したかったが面倒だったのでやめた)。
仏教の真理は多少理解が難しいことがあるかもしれないが、理解してしまえばそう大したものではない。私はそれを理解するのに苦労したからこそ先ほどの自身の体験を語る流れでは自身が得たものを大きな意味のあるものであるかのように語ったのだが、それは私が得たものが本質的に大層なものであることを意味しない。私自身も良質な解説情報が最初から手元にあれば、もっと簡単に事実を知ることできていてもおかしくなかったし、才能がある者であれば数分もしないうちに仏教の内容を把握することもありえるだろう。仏教を学ぶ際は変にその真理が得難いものであると身構える必要はない。
権威を疑うことの大切さ
仏教について学ぶ際には権威に囚われてはならない。中には自身の禅の指導者に傾倒しそれを絶対視して他の教えを無条件に否定する者もいるようだ。しかしそのような態度は当然不適切なものである。なぜならば誰かを盲信すればその人たちが誤ったことを言っていた場合に正しい道に戻ることが難しくなるからである。従って、仏教に取り組む際には、その指導者の話す内容を疑うことを封じてはならない。また、盲信の対象してはならないのは釈迦であっても同様である。そのことの正しさは釈迦自身が自分の言うことを疑わずに信じることのにしないように警告していることからも確認できる。仏教について学ぶ際は、自分で仏教の思想を再構築するぐらいのつもりで取り掛からなくてはならない。そこまでして初めて真にその思想を理解することができるのである。歴史上の仏教の指導者によって書かれた解説は真理探究の際の参考情報程度に留めるべきである。
言うまでもないことかもしれないが私の本著の解説についても過信するべきではない。私が仏教の内容を正しく理解したという保証はないし、仮にそれがあったとしても今度はそれを正確に解説できているという保証がない。また、私の仏教に関する説明は、日本の禅の思想に強い影響を受けたものであるが、その禅の思想が仏教の教えと一致するとは限らない。日本の仏教はそれがインドから伝わってくる過程において改変が加えられていると言われることがあり、おそらくそれは事実である。従って、私の解説は改変された仏教を更に自身が改変したものとなっている可能性がある。
無分別の悟り
本著では、分別のない状態すなわち無分別に至るための悟りを無分別の悟りと称することとする。
無分別に至る方法
無分別の悟りを目指すにあたっては、目的である無分別に至ることそのものよりも、「作られた分別に対して作られたものであると見抜くこと」や「分別を作らずにいる方法を知ること」を重視したほうがいいのかもしれない。そもそも頭が働いてない状態などは日常生活の中で多々あることであり、無分別に至れば苦しみがなくなるというのであれば誰でもとっくに苦しみから解放されているはずである。しかし実際にそうなっていないのは、悟りとは無分別に至ることそのものではなく、何かに気づくことだからであると考えられる。そして私はそこで得られるべき気づきは、先述の「作られた分別に対して作られたものであると見抜くこと」と「分別を作らずにいる方法を知ること」を達成することができる気づきであると考える。それらを得ることで、自らの意志で無分別に至ることができるようになり、自分の都合で思考によって生じる苦しみを消すことが可能となる。
それではそれらの気づきを得るためにはいったいどうしたらいいのだろうか。その方法は正直なところ自分にもよくわからないが、以下では自分なりにその方法を考察しまとめてみることとする。それを試せばうまくいく保証はないので、うまくいかなかった場合は自分自身でいろんな方法を試してほしい。
まず、分別を分別と見抜くことは、捨てるべきものを認識するために必要なことである。そもそも捨てる対象がどれかを知らないことには、分別を捨てる方法というのは実行できない。そして、分別を分別と見抜くためには無分別を知ることが大切である。無分別を知れば、分別が生じたときにそれが無分別ではないことを知覚できるようになり、その結果分別を分別と捉えることができる。無分別を知るためには自身の内面を観察するということが大切である。また、瞑想をして思考を押さえると無分別をとらえるチャンスが生まれるかもしれない。ちなみに、無分別の分析は、脳の短期記憶にでも残った情報をもとに分別を用いて行うことになると思われる。
次に、分別を捨てる方法に気づくということについては、私が以下に分別を捨てる方法を示しておくのでそれを読むことで実現できる。だが、これを読むだけではうまくいかなかったのであれば、自分自身で試行錯誤することでより効果的な方法に気づくようにしてほしい。分別を捨てる方法は以下のとおりである
・思考を追わない
思考を消すとは言ったが、そのためには思考を無理に抑え込もうとするよりも、「思考を自ら積極的に作らないこと」や「発生してしまった思考を追わないこと(それについてあれこれ考えないこと)」を実践した方がいいだろう。そのようにすると結果的に無分別に近い状態になることができるのである。思考を追っているうちはいつまでたっても思考を手放すことができない。何らかの考えが一度湧いたら次を生じさせてはならない。次が生じてしまったのなら次の次を生じさせてはならない。途中で思考が湧いたとしてもその事実を悪としていろいろ考え始める必要はない。私は完全に思考を無にすることができるとは思っていない。どうしても何かしら思考が生じてしまうことはあるだろう。それに対してあれこれと考えるべきではない。
・自身を思考に至らしめる考えや価値観を捨てる
思考を捨てるときは、思考を根こそぎ捨てなくてはならない。無分別に至らなくてはならないという考えや、自身を思考へと駆り立てる価値観などを含むすべての思考を消す必要がある。なお、思考を捨ててはならないタイミングでまで思考を捨てている者は、今度は思考を捨てるという思考に囚われているため、何かを勘違いしていることを自覚するべきである。
・無分別を知る
無分別を知ることは、分別を捨てる方法としても有効である。無分別を知っておけば、無分別から分別が生じるタイミングを見つけられるようになり、そのときの自分の心の動きを特定することで、その動きの停止を試みることができるようになる。
・瞑想
瞑想をすればより完全に思考を消すことができる。だが私には瞑想しなくては到達できないほどの無の境地に到達するのは必須ではないように思われる。どうせ思考は完全には消せず、完全な無に到達する必要性などない。
私が私という感覚を喪失させる際に行っていたことを考えると、ある分別の発生を抑えるためにはそれが認識される瞬間を観察しようとするといいのかもしれない。そうするとそれは不思議といつまでたっても発生しないまま終わるのである。これはおそらく観察することに必死になって私を作る余裕がないからだろう。そしてものがいつまで立っても発生しないのを見て、「それは自分が作らなければ発生しないのだ」ということに気が付くのである。あるいは、自身が「ある」と認識しているものをじっと見続けると、そのものが実は一瞬しか存在していないことに気が付くかもしれない。ものをものと認識する時間はそんなに長くない。ちらちらとあったりなかったりするのだ。ものを認識するのは本来一瞬のできごとなのだが、それについてあれこれ考えるからずっとその物への認識が残り続けるのである。そしてそこで認識ないタイミングにとどまれるようになれば分別が消せたことになる。それが無理なら逆にものを認識し続けようとするのもありかもしれない。目の前にあるコップを寸分の隙も無く認識し続けることは難しく、ずっと見続けるといつのまにか認識しない状態が長く続くことになるかもしれない。
上記以外の見解
・多くの人は考えることで問題が解決すると思い込みすぎている。その思い込みは断たれるべきである。なお、そのことは考えても問題は解決しないと思い込むことと同じではない。
・思考を手放さなくてはならない。
「思考を手放さなくてはならない。」という思考も手放さなくてはならない。
「「思考を手放さなくてはならない」という思考も手放さなくてはならない。」という思考も手放さなくてはならない。
...
以上のような思考を全て捨てる必要がある。
・ある人が無分別の世界に対して何らかのイメージを持っているのであればそのイメージもまたその人自身が作り出したものである。無分別を認知するとき、認知されるものは仮の無分別にすぎない。
・矛盾をいついかなるときでも解決しなくてはならないのだという思い込みは断たなくてはならない。言葉の世界に囚われる人は完全な理屈を作らないと安心することができない。もし完全な理屈を作った気になれたのだとしてもそれと矛盾する事実が現れるとたちまち不安になり始めることになる。
・物というのは自身の認識の世界においては自身が認識した時にしか存在しない。また、ものが自身が観測していないときにもずっとそこにあるという認識は人が後から作り出したものである。では逆に物は自分が見ていない時には存在しないのだろうか。実はそのように「物がない」という認識も自身が作らなければ存在しないものである。「ある」も「ない」も自分が作らなければ自身の世界には存在しない。思考を消すということはいずれの認識も消すことである。
「ものがある」「ものがない」という認識の両方を喪失した状態がいまいち想像できない人は、人は昨日の最初の食事をとったときには太陽が宇宙に存在するだとか存在しないだとか考えていなかったことを思い出してほしい。そしてその状態をそのまま維持すれば自身は太陽についてあるともないとも認識しないままである。これは「私」を含む他のあらゆる概念についても同様であり、すべての概念は日常に潜むそれを作ってない状態を維持すれば発生しないままである。
・純粋な意識から分別が発生しその分別こそが苦しみをもたらすのだという理解を言葉で持ってみたところで、それだけでは何にもならない。それだけだと本著の「世界は私が作っている」の「私について」の部分で解説されるかつての私と同じ状態になる。
・これが純粋な意識でそれになることが苦しみからの解放につながるのだと考え、実際に苦しみに直面したときにそれになってみようとしたのだとしても、本当に重要なことを理解できていない者は、結局胸の奥底から強い執着が湧いて出て自身が何ら変わってないことを自覚せざるを得ない。なぜそのようになるのかというと、その人が結局根本的なところで当然のように余計な価値観を握りしめていることに変わりがなく、その価値観がその人に苦しみをもたらすからである。
・仏教の真理ないし禅の核心を理解した者は、いちいち純粋意識に立ち返るのではなく、執着をもたらす脳内の動きを停止することによって、心の平穏を得る。そして、真に世界の構造を掌握しているのであれば、そのような動作は、複雑化した概念世界の調整に多大な脳のリソースを割かずとも、もっと直感的にもっと簡潔に行うことができる。
徹底の悟り
本著では、分別や苦しみのない状態への拘りを捨てる悟りを、無分別を無分別と分別の境界がなくなるほどに徹底するという意味で、徹底の悟りと称することにする。それを達成すればもともと無分別と分別の区別が存在していたところにそれらの消失も加わり、無分別と分別の双方が肯定と否定の双方を帯びるようになる。その段階では囚われないことにも囚われない真に自由な状態が実現される。
この悟りが必要となるのは、恐らく仏教徒が仏教を探究する際に、その動機を得るために苦しみからの解放を求める価値観を思考を働かせる時間に存続させるからである。私はこの悟りに関しては特に難なく得ることができたので、自身がどうやってそれを手にしたのかは皆目見当もつかないが、とりあえず苦しみが生じることなど気にせず楽しめるものを楽しむようにしておけばよいのではないだろうか?そうすればそのうち自ずと無への執着が消えるタイミングが来るはずである。ただし何かを楽しむ際は当然道徳的な観点から節度をわきまえておくべきである。また、最初から特に抑圧など感じていないというのであればこの段階は必要ないと思われる。
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