この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
地道に考え続けることの重要性
私はアインシュタインを非常に尊敬している。アインシュタインがこのようなヒントを残してくれていなければ、私は物事について深く考えることをしなかった可能性が高いからだ。私はそれを知ったことで、自身にもアインシュタインと同等のレベルには届かずともかなり高度な世界の真理を見抜くことができるのだと確信した。
アインシュタインはかつて「6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない」と言ったようだ。私はこの言葉を聞くまでは、天才の発想は才能がなければ決してひらめかないようなものだと思っていた。しかしそれは実際には間違った考えである。アインシュタインは天才的な脳によってではなく地道な洞察の継続によって相対性理論やその他多数の優れた物理学の理論を生み出したのである。私はその言葉を聞いて真実を理解して以降、物事の本質や根本的な構造についての徹底的な洞察を行うようになった。そして、その結果かつての自分からは考えられないほどの発想力を手に入れることに成功した。
以下では具体的にどのようにすれば物事の本質や根本的な構造を見抜けるのかということについて、「本質洞察」と「根底疑念」という二つの手法の解説を通して明らかにする。これらを実行することが出来た者は他の追随を許さない超分析力及び発想力を手にすることができるだろう。
本質洞察とは
・本質とは
本質とは、何らかの物事の、それをそれたらしめるのに必要な部分のことである。例えば民主制の本質は、民衆全体で政治を行う制度という部分である。そこから民衆全体という部分を取り除くと、それは民主制ではなくなる。従ってその部分は民主制を民主制たらしめるために必要な部分であり、民主制の本質であると言える。また、現代の民主制の中には民衆が選挙によって代表者を選ぶ制度が多く見られるが、選挙の部分は民主制の本質ではない。なぜならばそれを行わず民衆が直接政治を行う制度も民主制の一種だからである。
本質は以上のように、あるものを過不足なく示すものである。ただし、本質を指し示す確固たる表現が常に見つけられるとは限らない。本質を捉えようとするとき、それが複数のパターンであることや時と場合によってそれが変わることも考えられる。あるいは輪郭をぼやけたままにしておかなくてはならないことだってあるかもしれない。
補足:以上では分かりづらいかもしれないので付け加えると、「民主制ってこんな制度だよね」と思ったときに想像される制度から、その制度が民主制であるために必要な部分を残し、そうでない部分を取り除くことで出来るのが、民主制の本質である。最初から民主制の定義を完全に知っているものは、そのような作業を行って民主制の本質化を行うことは必要ない。
・本質洞察の行い方
本質洞察とは概念、法則、構造の本質を明らかにすることである。本質洞察は本質化とも言い換えることができる。
概念の本質化は、概念が指し示すものを過不足なく最小の情報量で言い表せる表現を明らかにすることである。なお、その際の最小の情報量にする処理は絶対にやらなくてはならないことというわけではないが、行っておくのが好ましいことである。
法則の本質化は、法則に含まれる条件や結果から余計なものを取り除くことである。法則とは条件→結果で表されるものである。条件や結果は複数の事象から構成されることがある。法則の本質化がなされていないということは、法則の条件に法則の結果を導くためには必要のない条件が含まれていたり、法則の結果に法則の条件からは導かれない結果が含まれていたりするということである。法則の本質化では、そのように無用な原因や結果の情報が取り除かれる。なお、法則の本質化の際には、条件と結果の間にある動き(それは法則の連なりによって示される)についても明らかにしておくことが望ましい。
構造とは複数の単一概念あるいは構造とその位置関係の情報によって認知されるものである。構造の本質化は、構造の記述から無価値な重複を取り除いたり、構造の何らかの観点から価値のある部分以外を取り除いたりすることによって行われる。なお、位置関係は相対的な記述であり、絶対的に見える記述も実際には時間や空間などの概念に対する位置を示すことによって行われている。また、位置関係の情報は根本的には概念や構造と同じである。
・本質洞察の利点
本質洞察を行うことで物事の本質を見抜くと、情報処理容易化の効果と、法則の再現性確保及び法則の再現容易化の効果を得ることができる。まず、概念や法則や構造が本質化されていないと、そのうちに余計な情報が含まれることになるため、それらについて考える際の思考コストが増加することになる。更には、本質が明確にされていない概念や法則は意味が不明瞭であるためにその解釈をする際に迷いが生じる。また、自身が知る何らかの法則を本質化しておかない場合、自身が知る法則に示される条件あるいは結果に無用な情報が混ざることとなる。そしてその結果、その法則の結果の部分を意図的に引き起こそうとする場合、無用な条件まで再現する必要が出たり、その法則で示される条件を整えたにもかかわらずその結果が思い通りに再現されなかったりすることになる。以上のデメリットを無くすのが本質化のメリットである。
根底疑念とは
根底疑念とは、何かについて考えるときに、その前提となっている概念や考えにそれとは何かという疑念を向け分析することである。例えば、良い選挙制度について考えるときに、まずその目標の前提として存在する「選挙」という概念に対して「選挙とは何か」という疑念を向けその答えについて考えるのが根底疑念である。優れた選挙制度について考えるとき、たまたま思いついたあるいは知った制度をまとめるのではより優れた制度や考えを見落とす可能性がある。しかし選挙とは何かということを明らかにしておくことで、選挙制度の全体像を把握することができ、理論上有りうる最善かそれに近い選挙制度を見落とすことを防ぐことができるのである。
ただし、根底疑念を実行する際の分析は単に問いかけの対象となる概念の本質を見抜く程度の中途半端なものではならない。根底疑念として選挙とは何かということについて考えるのであれば、選挙の本質だけでなく、選挙という概念に当てはまる全ての制度、それに関わる全ての事象について、体系的に徹底的に明らかにするのである。具体的にどの程度明らかにしたらいいのかということについては本著の民主主義の章の選挙についての解説の部分を読めばイメージできるだろう。あれほどまで分析して初めて根底疑念であると言えるのである。現実には時間的制約からどうしても分析対象や分析の程度を絞らなくてはならないが、本来の理想はそれが不可能であってもすべてについて完全に分析しきることである。
余談:前提となる知識から推論によって導くことができる知識の取り扱い
前提となる知識から推論によって導くことができる知識があるとき、その知識はそれ自体を忘れてもその前提となった知識と推論のルールさえ知っていればあとから再び作り出すことができるといえる。つまり覚える知識の量を減らしたいのであれば、前提知識と推論の技術のみを記憶し、それらを用いて導き出される知識は忘れてしまう(覚えない)ようにすればいいといえるかもしれない。しかしそれはあるときには有効な方法かもしれないが、常いかなるときにも有効なものではない。例えば数学は定理を知らなくとも公理と推論のルールを知っていれば誰でも同じ定理を導き出すことができるが、それは定理をしらなくていいということにはつながらない。何故ならば、公理から推論によって定理を導き出すことには時間が必要であり、よく使う定理に関しては公理とは別に記憶しておいた方が良いからである。つまり本質から推論のみで導ける知識であっても直ぐには思いつけないかつ普段からよく使うようなものについては記憶しておいた方が良いのである。