この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
地道に考え続けることの重要性
私はアインシュタインを非常に尊敬している。アインシュタインがこのようなヒントを残してくれていなければ、私は物事について深く考えることをしなかった可能性が高いからだ。私はアインシュタインのこの言葉を知ったことで、私のような人間にもアインシュタインと同等のレベルには届かずともかなり高度な世界の真理を見抜くことができるのだと確信した。
アインシュタインは「6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない。」といった。私はこの言葉を聞くまでは、天才の発想は才能がなければ決してひらめかないようなものだと思っていた。しかしおそらく違うのだ。アインシュタインは地道に物事の本質や根源についての理解と考察を続けたのだ。私はこの言葉を聞いて地道に物事の本質や根源についての考察を行うようになり、結果としてかつての自分からは考えられないほどの発想力を手に入れることに成功した。ちなみにファインマンも「高校生レベルの知識層に説明して伝えることができなければ、その人は科学を理解しているとは言えない」と言っている。
本質考察とは
さて、それでは本質とはいったい何であろうか。本質とは余計な部分を取り除いたもののことである。物事をの本質を取り出せば思考において操作しやすくなり、余計な情報に惑わされることがなくなる。そしてそれは発想を促すことにつながる。その本質の把握は本質を言葉によってより明確に表現するように行うとよい。
根底疑念とは
この項のもう一つのテーマである「根底疑念」とは、例えばいい曲の作り方を考える際には音楽とは何かという根本に疑念を投げかけるような行為のことである。あるいは音とは何かという問いや、人はなぜ音楽を作るのかという問い等もありだろう。曲を作るための些細な技術よりもまずは先に、もっと根源的なものに疑念を投げかけることが大切である。自身が当然と思ってしまっているところに疑念を投げかけることが大切である。
余談:前提となる知識から推論によって導くことができる知識の取り扱い
前提なる知識から推論によって導くことができる知識があるとき、その知識はそれ自体を忘れてもその前提となった知識と推論のルールさえ知っていればあとから再び作り出すことができるといえる。つまり覚える知識の量を減らしたいのであれば、前提と推論の技術の身を記憶し、それらを用いて導き出される知識は忘れてしまう(覚えない)ようにすればいいといえるかもしれない。しかしそれはあるときには有効な方法かもしれないが、常いかなるときにも有効なものではない。私は数学に詳しくないので誤解しているかもしれないが、例えば数学は定理を知らなくとも公理と推論のルールを知っていれば誰でも同じ定理を導き出すことができる。しかしそれは定理をしらなくていいということにはつながらない。公理から推論によって定理を導き出すことには時間が必要であり、よく使う定理に関しては公理とは別に記憶しておいた方がいいのである。
これはつまり本質から推論のみで導ける知識であっても直ぐには思いつけないかつ普段からよく使うようなものについては記憶しておいた方がいいということである。