世界の基礎+α

世界の平和を実現するための方法を考えます

民主主義が推奨される理由

この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。

kanayamatetsuya.com

 

「私が民主化を推奨する理由」及び「民主化を否定する言論に対する私の反論あるいは提案」は以下の通りである


平和的な政権交代

民主国家では、民衆のためにならない政治が行われた時に、民衆が投票先を変えることで平和的に政治権力保有者の変更を行うことができる(※それができないならそもそも民主制ではない)。このことは民主制の大きなメリットである。むろん独裁国家であっても、独裁政権による圧政が行われると、民衆によってその政権が打倒されることはある。しかしその場合、独裁者が体制の維持を望むと、民衆の血が流れたり民衆が逮捕されたり恐れが高く、実際に歴史を見ると民衆の抵抗運動が武力によって抑えられたケースは多々見られるのである。


衆愚政治への対策としての独裁論について

◇衆愚政治対策の独裁論の問題点

民主化の反対理由として多く見られるのは、「民衆は政治的に無知であるため、民衆が政治の決定権を持つと誤った政策が実行されることが多くなる」という考えである。私は確かにこれには一理あるかもしれないと考えている。実際私自身が古い時代の為政者であり自身が優秀であるということを十分な証拠に基づいて確信できた場合には、既存の権力者による民主制への反発を考慮しなくていい場合であっても、民主化を民衆の生活水準と教育水準がある程度のレベルに到達するまで待つ選択をする可能性はあるだろう(ただしその場合の私は、明らかに民衆の強い民主化要求があれば、そのリスクを示しつつも私がその動きを一方的に抑える権利などないと判断し、民主化を受け入れる)。

だが、民主制に問題が存在することを認めるのだとしても、独裁制の方が望ましいと考えるのは早計である。何故ならば独裁制を選んだとき、独裁者が優秀かつ民衆の利益を目的とした政治を行う者であるとは限らないからである。衆愚政治を恐れて独裁体制を支持したとしても、その体制が優れた政治を行う保証はない。また、独裁は政治が良い方向にも悪い方向にも極端になりやすい性質も持ち、それについても望ましいものではない。独裁体制では権力が民衆の一部に集中するが、もし権力を掌握するのが民衆の内の優秀で善良な個人や集団であれば他者の無理解や私利私欲による反対などで頓挫したり停滞したりせず迅速に国家の発展を実現することができるかもしれない。しかし、逆に権力を掌握するのが無能であったり善良でなかったりするものであれば、悪政を対立勢力の権力による修正を受けずに行い始めたり、権力を持たない人々の利益を考えない政治を行い始めたりするのである。そして、そのように良い方向にも悪い方向にも極端な結果が生じうる制度は国家の制度としては望ましくない。何故ならば、極端な悪政が起こってしまった場合、極端な善政によって取り返しがつくとは限らないからである。もし多くの人々を死滅させる政治が行われた場合、それらの人々が後の善政で生き返ることはない。ここで、極端な善政の存在がそれらのデメリットを覆すことができればまだいいのだが、それもおそらくないだろう。なぜならば、極端な善政の結果は極端な悪政によっていくらでも台無しにすることができるからである。

もしかするとここまでの文章を読んで、優秀かつ道徳的な存在のみが為政者となれるような独裁制であれば問題はないのではないかとの反論も起こるかもしれない。しかし私はそのような制度を実現する方法を現状確認できていないため、その考えを肯定することはできない(※仮にそれを実現する方法があったとしても、他の民主化推奨理由によって民主制を肯定する可能性は依然として存在する)。まず優秀な独裁者のみが選ばれ続けることは、個人独裁(※為政者の選出権限が多人数に保有される独裁制であればそれは集団独裁でありここでいう個人独裁にあてはまらない)かそれに近い独裁ではありえない。何故ならば人は優秀かつ道徳的でありその状態を為政者の地位を降りるまで維持できる人間を確実に見抜く力などないため、個人独裁を続ければいずれ誤った人選が行われることは避けられないからである。そして、集団による独裁を行う場合は、個人独裁ほどは極端な結果にはならないだろうが、それでもその集団の質を高度に保ち続けることは困難である。何故ならばそのような体制の下でも、集団内の多数派や権力者が判断を誤って考慮すべき意見を持つ者をその集団から排除するリスクが存在し、その判断が何度も繰り返されば徐々に集団の質が低下する可能性があるからである。

以上の問題は民主国家であれば緩和することが可能である。民主制は全民衆が政治的決定権を持つことを前提とする制度であるため、優秀でない者の考えも必然的に議会に反映される一方で、少数派であるが政治的判断に関わるべき人間を政治の場から排除することも防がれ、その結果極度に為政者集団の能力が低下することはなくなる。また、民衆自身が政治の代表を選ぶことから、私利私欲で政治を行おうとする者が政治家になることもいくらか抑止される。なお、代議制民主国家では数百名程度の議員に権限が集中するが、その議員は全民衆の意志によって選出されているのであり、民衆のうちの一部が権限を独占していることにはならない。

 

◇民衆の教育水準を高め、より良い民主制を採用する
私はここまでで示した事実や後に触れる高度に発達した科学技術による独裁強化リスクを鑑みて、現在の世界においては国家は民主化することが望ましいと考える。民主制は極端な善政は行えない代わりに極端な悪政も行えないような制度であるが、それを採用した場合でも民衆の教育水準と制度の質を向上させるのであれば、より良い政治を行うことは可能である。

人々の教育水準の向上は多くの人が自ら学び、自ら教えることによって達成される。民衆全体の教育水準をすぐに上げることができない場合は、それが実現されるまでの間、優秀な者が積極的に政治家や官僚、それらに助言する専門家となることで政治のレベルを高めるように努めるべきである。

制度の質を向上させる具体的な方法については本著のこの民主制に関する解説を行う章を読めばある程度把握することができるが、とりあえずここでは大統領制の採用は控えることを推奨する。それは個人に権限が集中する傾向が強い制度であり独裁制のデメリットが残りやすい制度である。また、大統領になれなかった大統領候補を支持した人々に多くの不満がたまるため、民主主義が定着する前に民主体制が転換させられる結果になる可能性も高い(※議院内閣制では特定の政党に属する議員のみが行政権を担うのだとしても、多様な民意が反映された議会により強い権限があるためそのような不満は比較的溜まりにくい)。どうしても、大統領制を採用するのであれば大統領の権限を十分に弱体化させておくべきである。

 

独裁体制の意思決定の速さに潜むデメリット

独裁体制では政治権力を行使する際に、同意を取るべき者の数が少なかったり反対意見を持つ者の賛同を得ることが不要であったりするため、実施するべき政策の決定からその実施までの時間が短く済む傾向がある。そのため、もし権力を握るものが優秀であった場合には、民主国家を上回る速度で国を発展させることができる可能性がある。

しかしそのメリットは対立勢力の権限の否定というデメリットの上になりたつものである。独裁者が自ら良く他者の意見を聞くうちはそのデメリットは問題にならないかもしれないが、その状態が保たれるという保証はない。そして、もし独裁者の独善的な価値観あるいは誤った判断によって対立意見を無視したのであれば、政治に反映されるべき考えが反映されなくなる恐れがある。


それに対して民主国家では、政治家が特定の政策を実行しようとすると多くの他の政治家の賛同を必要とすることから、政府の意思決定速度は遅くなるが必然的に政治家が対立者との議論を行うことは促進される。そして、そうなれば、政治家に対立者の意見を聞くことや取り込むことを強制する効果が生まれ、そのことが政策を決定するときに考慮するべきことを見落とすことを防ぐのである。もちろん民衆の多くが間違ってる場合は誤った政治判断が無理に押し通されることはありうるだろう。だが独裁国家においても独裁者が間違っていることはあるのであり、民主国家だけがその問題を指摘されるのは妥当ではない。

また、民主国家でもどうしても迅速な対処が必要とされる場合はあると思われるが、そのような事態への対策は民主体制を維持したままでできないわけではない。その具体的な方法については、後の「権力分立の弊害とその対策」の項で解説する。


民衆の権利の制限リスク

独裁国家では独裁者に体制維持を望む明確な意志があるとき(現在の独裁体制はほとんどそれにあてはまるだろう。なぜならその意思のない独裁者など既体制を転換させているあるいはされているからである)、民衆の権利は体制転換に繋がらない範囲でしか認められない。例えば、独裁者が何らかの理由で一時的に言論や学問を自由に行う権利を民衆に認めようとしたのだとしても、それが体制転換に繋がる可能性を持った途端、たちまちその権利は規制の危機に瀕するだろう。そして、言論の自由や学問の自由が制限された場合、為政者が自身の問題点の批判を行う言論を目にする機会が減少し、そのことは必然的に誤った政治的判断が行われる可能性を高めることになる

また、独裁体制下では体制転換に繋がらない範囲の権利であっても独裁者の独善的価値観によって規制反対派が議会で意見を述べることもできないまま規制される恐れがある。

 


公務員の能力採用の容易さ

独裁体制下では、私利私欲で動く独裁者は反乱を恐れ、政府の重要な役職につく者を、能力よりも従順性を重視して選ばなくてはならなくなる。また、民衆のために働く意思のある独裁政権であっても、民主主義の正当性が優秀な人々の間で広く支持されている状況では、民主化へ加担されることを恐れて重要な役職に優秀なものをつけることができなくなる。ただし、民主国家においても、そもそも民主主義が優秀な者の間で支持されてない状態であれば、同様の問題は生じうる。

 

民主的平和論

私が民主化を推奨する理由の一つとなっているのは民主的平和論の存在である。民主的平和論においては、世界の国々の民主化は、国家間の武力衝突を抑える効果を生むと考えられている。そのことについては第10章の「世界の民主化と合意の積み重ねによる世界平和」の節にて詳しく解説する。

 

最新の科学技術と独裁政権

私が世界の民主化を推し進める理由の一つには独裁政権が新たに開発された科学技術を手に入れることへの警戒心がある。私は危険な側面がある科学技術に対する最も良い対策は、独裁者などの世界の一部の人間が自在にそれを扱えるようにすることを防ぎ、民意に基づいて民主的な方法でその監視と管理を行うことであると考えている。

私は現時点ではAIに関してほとんど何も知らないので汎用人工知能が実現可能かどうかについては語ることができない。しかしもし万が一実際に知能の側面において人間の完全な上位互換である人工知能等ができてしまえばどうなるだろう。おそらく独裁政権あるいは独裁者は民衆の賛同を得ずに行使できる力を増やすことで民衆に対する弾圧をより容易に行えるようになるはずである。また、実際には以上の話が全く現実的ではないのだとしても現在民主主義を支持しない者は「独裁者が今後新たなテクノロジーを手に入れることは確実であり、それがよからぬ結果を招く恐れがある」という事実については十分に理解しておいた方が良い。例えば、中国政府は今後さらにAIと監視カメラに関する技術を高めていくことは間違いないだろうが、そうなれば民衆の抵抗は一層困難になっていく恐れがある。更には、今後独裁政権が高度な自律兵器を獲得することで民主化運動を弾圧を効率的に行ったり弾圧の実行者の罪悪感を低減させたりする可能性もあるはずである。私は以上のような事態を防ぐためにも念のため世界各国の住民は(焦りによる失敗を回避しつつ)早めに自国の民主化を達成しておいた方が良いと考えている。

 

個人的理由

私は私自身の命運を自分自身で決めることを望み、それが他者によって決定されることをよく思わない。従って、私は自身が政治に関わらないほうが良い結果になるのだとしても、政治的決定権を他者に委譲することはしない。ただし、自身だけが自己決定権を保有しようとすることは不公平で非道徳なため、他者も自身と同等の政治的権限を持つことについては、それが他者によって自身の命運が左右されることに繋がるのだとしても受容する。

 

余談:無政府主義について

民主体制や独裁体制以外の選択肢には無政府状態(社会を統制しようとする組織が一切ない状態)がある。しかし無政府状態を目指す思想である無政府主義は現実的なものではない。そのような状態になれば犯罪への抑止力が大きく低下するし、そもそも一度それを実現しても結局は人々の中から政府を作り始める者が表れてその状態は消失するからである。

 

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