この記事は書籍「世界の基礎」の一部です。
※以下は日本の教育に対する提案であり、他国の教育にとってもあてはまる指摘であるとは限らない。例えば以下においては学校教育において覚えさせる知識量を厳選によって減らすことを推奨しているが、もし逆に習得させる知識の量が不十分な国家があるのであれば私はその国に対しては真逆のことを推奨すると考えられる。
※私は2000年及びその前後の数年のいずれかの年に生まれており、この章で行われる批判は主にその年代に生まれた者が受けた教育に対するものである。
知識の暗記に重点を置いた教育を行うと、その作業の単調さに基づく精神的苦痛から子どもの学習意欲は破壊され、さらには子どもが勉強においては考えることより記憶することが大切なのだと誤解することにつながる恐れがある。そして、そのように自ら考えることをせず知識を暗記することばかりをしてきた人間は、自身が記憶した知識では対応できない状況に直面した場合やその知識が誤っていた場合に対処することが難しく、さらには知識の応用も教科書に載っているような場面でしか行えなくなるのである。
また、自らが学ぶと決めた内容ではなく学校で指定された内容の学習に過度な時間を割かせるような教育は、子どもから自主的に活動する時間を奪うことになる。そして、そうなると必然的に、そのそのような教育を受けた人の自ら課題を決めそれを達成する能力は低下し、その人自身の幸福度をも下げることとなるだろう。
私は以上の問題を解消するために、「学校教育において必修とする知識やテストで問う知識の量をその内容の厳選によって減らすこと(テストの内容は生徒の内のかなりの割合が満点を取ってしまうほど簡単なものでも問題はない)」及び「受験競争の緩和や受験制度の廃止を推進すること」を推奨したい。もしただ自由にさせるだけでは子どもが遊ぶばかりになるというのであれば、子どもの自主的な活動を促すための何らかの圧力をかけることを検討すれば良いだろう。しかしその圧力は子どもが強制されたと感じないようなものであることが望ましい。
私の推奨する以上の方針を聞いてゆとり教育を思い出す日本人は多いかもしれない。ゆとり教育とは子どもに生きる力を身に着けさせることを目的として行われた日本のかつての教育政策(2002年から2011年の間に行われていた)であり、それが実施されていた期間は学校で学ぶ知識の量の大幅な削減が行われていた。その教育を受けていた世代はゆとり世代と言われている。日本ではそのゆとり教育に対して失敗であったと批判する人は多い。そこから考えると私のこの方針にも否定的に見る者が多いかもしれない。しかしゆとり教育は本当に間違いだったのだろうか。少なくとも私は教育改革の方向性としては間違っていなかったのではないかと思う。
PISA<ピザ>とは15歳を対象に行われる義務教育で学んだ知識を活用する力を見る国際的なテストである。ゆとり教育への批判の根拠としてPISAの点数の下落が挙げられるが、実のところそれがゆとり教育によるものであるということは難しい。むしろPISAの点数の推移を見れば、特に点数が高かったのはゆとり教育を特に長い期間受けた世代である。確かにゆとり教育が開始されてすぐの2003年に実施されたPISAでは点数は低かったが、そのときPISAを受けた生徒はゆとり教育をほとんど受けてない世代である。逆に2012年で実施されたPISAでは日本の生徒はそれ以前の日本の生徒や世界の生徒と比較しても高い点数を出しているが、その世代はまさにゆとり教育のピークに近い世代である。この事実から考えるとゆとり教育により学力が低下したとは言えないはずである。また、仮にPISAの点数が下がっていたのだとしても、そもそもPISA自体が過信するべきものではないのでその点数のみで教育を評価するのは控えたほうが良い。日本の子どものPISAの点数は国際的に見れば継続的に高い水準にあるが、それにもかかわらず日本人の幸福度は年齢に関係なく低い水準にあり、日本の労働生産性は低く(※これは制度の問題もあるので必ずしも各個人の能力とは関係があるとは限らない点には注意が必要である)、更には先述の通り社会人になってからの学習時間が少ない状態にある。これらの事実はPISAに対して疑いを向けるには十分な事実である。PISAの点数は低いよりは高い方がいいだろうが、私はPISAの点を低下させることにつながるのだとしても時間をかけて身につけさせなくてはならない能力が世の中にはあるのではないかと思っている。PISAはあくまで一つの指標に過ぎないことをよく理解しておくべきであり、その他の視点からも教育を評価するべきである。
そして、もしゆとり教育に問題があったのだとしてもかつての詰め込み教育に戻ればいいというものではない。知識を詰め込む教育ではここまでに言及した「自ら考える力」や「自ら行動を起こそうとする態度」はどのみち身につかないのである。ゆとり教育に問題があったのならその根本の方針は変えないまま新たな対策を打つべきではないだろうか。
・その他
教育を改革する際には、国の競争力や子どもの実力を極限まで高められる教育が最善の教育であると誤解してはならない。真に重視するべきは人々の幸福の実現であり、人々の能力の向上はそのためのものである。子どもの能力を高めたいがあまりに、子どもの幸福を無視して時間を奪うようなことできるだけ避けるようにするべきだろう。もし現在の社会が競争に勝たなければ生きていけないものとなっているのであれば、改善されるべきはそれである。
日本は公的な教育費の支出が少ない。GDPに占める公的教育費の支出額の割合はOECDの中では最下位である。私はまだ財政について詳しくないので大したことは言えないが、日本政府はもう少し教育への支出を増やしたほうが良いだろう。それは長らく停滞している日本の成長を促すことにもつながるはずである。また、その際は現在日本においても広がりつつある資産の差による教育格差を縮めることも目指したほうが良いだろう。
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